”エルリッヒのプール” それは、おそらく日本で一番不思議なプール。
夏のさかりに金沢21世紀美術館へいってきました。 おりしも金沢に台風上陸が囁かれていた日でしたが、とくに被害に遭うこともなく、恙無き鑑賞となりました。
「ありきたりの?(The Ordinary?)」というタイトルのとおり、ありきたりに見えていたものがありきたりでなくなる展覧会。普段身近にある階段が、エレベーターが、水たまりが、概念を変えてそこに存在します。
入ってすぐの≪見えない庭≫。
[caption id="attachment_1030" align="aligncenter" width="720"] ≪見えない庭≫[/caption]
小さな温室のようなケースに入った庭を覗くと、おかしな角度から自分が覗き返してくる。いったい、なぜそんな角度から私はこっちを見返してくるのだろう?この庭の中はどうなっているのだろう?ひみつは庭の中にあるのか、それとも、庭の外、つまり私が立っているこの世界がひみつでできているのか。 私がいた世界は、「ありきたり」の世界じゃなかったっけ?
小首をかしげながら、ふしぎな庭を後にして次の部屋へ。 目の前にはエレベーター。カゴが到着に合わせて開かれる扉。 扉が開くたび、中の人たちは入れ替わる。それはすべての世界において当たり前のことなのかもしれないけれど、なんだか幽体離脱して人の暮らしをぼんやり眺めている気持になる。
[caption id="attachment_1031" align="aligncenter" width="199"] ≪エレベーター・ピッチ≫[/caption]
エレベーター関係はもう一つ≪エレベーターの迷路≫という作品があって、こちらは実際に自分が乗り込みます。
[caption id="attachment_1032" align="aligncenter" width="1200"] エレベーターの迷路[/caption]
全部で6機(だったかな?)のエレベーターがあるのだけれど、個室かと思えばそうでなかったり、はたまた一番端に乗ったかと思えばその先は無限に続いていたり……。重力によってしっかり縫いとめられていた確信や常識がゆるゆると重みをなくしていく感覚は、ともすれば不安に近い感情なのかもしれないけれど、この場ではそれがとても面白いし愛おしい。
そんなわけで、引き続き、全力でエルリッヒの世界へ飛び込んでいく。
[caption id="attachment_1033" align="aligncenter" width="960"] ≪階段≫[/caption]
階段の奥まで見てみて。もはや、自分が立っているのが地面なのか壁なのか、階段の上なのか下なのか、天か地か、わからなくなってくる。そしてだんだん、「もうどうだっていいじゃないか。もっとおかしな世界に連れて行って」という気持ちになってくる。
[caption id="attachment_1036" align="aligncenter" width="290"] ≪住宅≫[/caption]
で、もっとおかしな世界を望むと、こうなる。(今回この作品は写真のみ)
天地逆転ついでに天から採ってきた雲、というわけではないけれど、このように雲を閉じ込めた部屋もある。
[caption id="attachment_1042" align="aligncenter" width="660"] ≪雲≫[/caption]
一見、「本当に雲?」と思ってしまうけれど、色をつけたアクリル1枚1枚を重ねることで、まるで雲を閉じ込めたかのように見せることができる。(あ、これだけネタバレを書いてしまった…) とはいえ、真横から見ない限り、その姿はまさにケースに閉じ込められた雲そのもの。
天地逆転系は一旦おしまい。
次の部屋には「あちら側」と「こちら側」の2つの世界が待っている。
[caption id="attachment_1041" align="aligncenter" width="960"] ≪リハーサル≫[/caption]
ディズニーランドで幽霊マンションに入ると、鏡の中の私の肩に、幽霊が首を乗せていることがあるけれど、そんな感じで「むこう側」の我々は立派に楽器を奏でている。チェロなんて一度も弾いたことがないけれど、「むこう側の私」はきちんとそれらしくやっていた。 こうやってどんどん世界の境界はあいまいになっていく。
だから、私の足元の水たまりが、「ここにはない世界」を映し出し、「ここでは降っていない雨」を受けて水紋をつくることも、もしかしたらあるのかもしれない。
[caption id="attachment_1043" align="aligncenter" width="604"] ≪サイドウォーク≫[/caption]
水たまりを介してだけ見ることができる「ここではない世界」では、その窓ひとつひとつに暮らしがあり、人々がそれぞれのリズムで生活していた。やがて夜が明け、むこう側の世界の人たちは朝の身支度をしてその日のスタートを切っていた。そして日が暮れ、夕闇が迫ると、窓にぽつぽつと明かりが灯る。むこう側の人たちは私が息をひそめて見守るなかで、ゆっくりと一日を終えていく。 水たまりの横を歩きながら、小さなむこう側の世界別れを告げると、最後の部屋には一面の銀世界が広がる窓。その窓を通り過ぎ、振り返ると、もう私はその家から追い出されてしまう。窓の中には、あたたかな空間。
さて、エルリッヒが用意した「ありきたり」を覆す世界は、もうひとつ残っている。 今度は私が覗きこまれる番であり、水の底から水面の向こうを仰ぎ見る番。スイミングプールの中にはいるときがやってきた。
[caption id="attachment_1040" align="aligncenter" width="660"] ≪スイミングプール≫[/caption]
青い世界でぼんやりと上を見上げていると、自分はつい先ほどまで「むこう側」だと思っていた「こちら側」の人間になったのだな、という気がしてくる。もしかしたら、私がこうして暮らしている日々を誰かが水たまりを介して見ているかもしれない。歩いている道は実は逆さまになっているのかもしれない。乗っているエレベーターの壁は無限に続いていて、隣のエレベーターとの境目はないのかもしれない。
ありきたりだと思っている現実は、もしかしたら全部入れ替わっているのかもしれない。
私ひとりでは確かめようがないので、またエルリッヒの力を借りて実感してみたい。そんな風に、水の底で考えた。