雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

アンドレアス・グルスキー展行ってきた。

国立新美術館 SONY DSCまあ、いきなりイケオジ出てきてびっくりするよね。 私もご尊顔を拝んだときは「ええー?この007みたいなオジサマがグルスキー?!」とびっくりしましたよ。

恥ずかしながらわたくし、グルスキーの名前は聞いたことがあっても、顔は愚か作品すらきちんと拝見しておらず「ああ、あの高額で落札された川の写真の人でしょ?」としか思っていなかったのですが、一角獣観に行ったときに乃木坂駅に貼ってあった大きなカミオカンデのポスターを見て、深く反省しました。

[caption id="attachment_371" align="aligncenter" width="400"]<カミオカンデ>カミオカンデ>  2007[/caption]

これは観に行くしかない。

で、展覧会行ってわかったこと。 こんなこと言ったら古参のグルスキーファンの方々に「お前にグルスキーさんの何が分かるんだ!」とどつかれそうですが、敢えて言わせてもらうと「この人の写真の本当の良さは、この人が決めた(プリントした)サイズで観ないとわからない」ということです。

こちらの展覧会、ありがたくもレセプションに参加することができたのですが(注:写真は美術館に許可を頂いて撮影したものです)、記者会見でグルスキー氏自身が「大きく見せるべきだとおもったものは大きく伸ばしている。かといって全て引き延ばすというわけではなく、作品に合ったサイズを考えてプリントしている。(とはいえ、はじめの頃はお金なくて伸ばせなかったんだけど…)」と語っていました。

大きいものはそのサイズだけでも観る者を圧倒する力を持ってはいるけれど、<99セント>や<ピョンヤン>のように、本来大勢の中に埋没するはずの個を認識できるレベルまで拡大させてピントを合わせ、ある意味強制的に大量の情報を視界に送り込むことで、観る者に軽いショックのようなものを与えることが、あそこまで伸ばす狙いなんじゃないかしら、と思わずにはいられない。 ・・・とかなんとか尤もらしいことを考えたりもしたけれど、単純に「うわっ」という迫力がありました。 あの大きさで全画面ベタピン、それも粒子細かくてエッジがシャープで、滑らかなところは徹底的に磨かれたようななめらかさ。私に語彙がなかったり言葉で説明する能力が足りないっていうのもあるけど、頭で云々考えるよりも、「うわっ」とか「おお!!」っていう感動なのです。

これはなー 図録も素晴らしいんだけど、それだけでグルスキーの写真を知ったとせずに(偉そうでスミマセン)、やっぱり生で観た方が良いと思う。プリントサイズ込みで体感するべきだと思います。(本当に偉そうでスミマセン) どれも生で観て興奮するんだけど、まずは<バーレーン>。 これはサーキット場なのですが、コントラストといい、模様のようなコースといい、美しすぎる1枚。ていうかもう不思議、なにこれ本当にある場所?という感じです。こういう景色見つけるために日夜リサーチを欠かさないし撮影チャンスを虎視眈々と狙っているのだよ~というグルスキー氏。

[caption id="attachment_370" align="aligncenter" width="307"]<バーレーン>バーレーン> 2005[/caption]

で、この1枚を観てからグルスキーのコンセプトのうちの1つが掴めた気がする。 <バーレーン>やピラミッドの一部を撮影した<クフ>(下の方に見づらい写真あり)は、ここがサーキット場だとかピラミッドだとかはたぶんあんまり関係なくて、それが持つ形の美しい羅列が意味を持つんじゃないかと。(それが強調されるように合成・画処理してはいる)

なんとなく、他のを観ても、「これが何を意味するのか・どんなメッセージがあるのか」と言うよりも先に、まず形としての妙というか美しさや興味深さありきなんじゃないかなって気がしました。

例えば<ベーリッツ>はドイツで働くポーランド人を撮影したもので、彼らの前に広がるラインはまっすぐなものもあればうねっているものもあり、”それはまるで個々の人生を暗喩しているかのように見えるのが興味深い”っていうのがご本人の弁ではあるんだけれど、まあそれも含めてなんだけど、でもやっぱり意味を持たせる前に被写体の形の妙っていうのがあるんじゃないかな~?と思えてならないのです。

[caption id="attachment_377" align="aligncenter" width="277"] 2007 <ベーリッツ> 2007[/caption]

人気が高いチャオプラヤーを撮影した<バンコク>シリーズも、離れた所から見ると幾何学模様のように見える一枚なのだけれど、よく見ると実は川面で、そこに浮いた油が反射していたりして不思議な模様を作っている。ゴミもたくさん浮いている。 環境汚染も含めたテーマになっている作品だけれど、それでもまず興味を引くのは水面に膜をはった油に反射して見える不思議な模様や光なのよね。

[caption id="attachment_374" align="aligncenter" width="640"]<バンコク>バンコクVIII> 2011[/caption]

グルスキーの写真を生で観たのはこの日が初めてだったのですが、近くで見ると、何だか不思議な感じがするのです。高額落札で有名な<ライン>も、水面がギザギザしていたり、<南極>も、土地の肌がなんというかとにかく不思議な感じがするんです。その現実の瞬間を写すというよりも、精巧に作られている何かのような。 まあ、ほとんどの写真を画処理しているそうなのですが(大判のベタピンで撮っても多少処理しないとああいう雰囲気は出ないだろう)、ご本人曰く写真家というよりもアーティストという肩書の方がしっくりくるとのこと。

そんな流れで、例のカミオカンデ(岐阜は神岡にあるニュートリノ観測施設)なんですけども。 上の方に貼った写真をよく見ると、スーパーカミオカンデの施設の中に水がはってあって、そこにボートが浮いていますでしょう?これもね、合成なんだそうです。 カミオカンデってたまにメンテやるらしく、グルスキーが中の写真撮りたいと交渉したら、メンテの時ならいいよという許可が出て、でもその時は水抜いちゃってるよと言われたそうな。※ちなみに見学もできる カミオカンデで画像検索すると、それはそれはすごい写真がたくさん出てくるんですけど(なぜか魚眼率高い)、水の張ってあるものもあり…グルスキーとしては「水張ってあるのが撮りたい!」ということで、もうこれはそういう写真を作るしかない、と。 ボートに乗った作業員(研究者?)が邪魔だから画処理で消した、ではなく、ボートに乗った作業員を敢えて足したっていうところに彼の中のカミオカンデのイメージがあるのでしょう。 たしかに”作業員”という要素が入ると、この不可思議な空間に現実が放り込まれて一気に妙なバランスが生まれるのよね。 フィクションとノンフィクションの境目を、自分の中に湧き出でたイメージを具現化すべく作り上げていくのは写真家でありつつ、やはりアーティストと呼んだ方がふさわしいのかもしれない。

ちなみに音声ガイドでカミオカンデのところにくるとBGMが流れるんだけど、グルスキー作曲のものです。 で、本来はこのカミオカンデ見たさに息まいていたのですが、個人的にそれを上回るヒット作があって、「大聖堂」ってやつなんですけど、これがもう、作品の前で固まってしまうレベルでした。本当にすごい。そうそう、大聖堂ってこの空気感なんだよーよくぞ撮ってくれた!私が富豪だったら買ってた!! 俄然ライン川よりこれでしょう!(ライン買った人ごめん)

[caption id="attachment_378" align="aligncenter" width="640"]左側<クフ>  2005   むこうに見えるのが<大聖堂> 2007 左側<クフ> 2005   むこうに見えるのが<大聖堂> 2007[/caption]

この写真、窓から入り込む光も、そしてその光の方へ向く撮影班が神託を受ける聖人のように見えるのも本当に素敵すぎて、祈りそうになる。※ちなみにこの撮影班はヴィム・ヴェンダース御一行様です。 (詳しくはこちら→ヴィム・ヴェンダース ”パレルモ・シューティング”)

あともう一つ挙げるとすれば、初期の作品<ガスレンジ>。 白地に黒と青のアクセント。このシンプルさがたまらない。 グルスキーにとって、「ある日突然こういったものに美しさを感じた」というこの一枚こそが、その後の作品へと続く転機となったものだそうです。

[caption id="attachment_379" align="aligncenter" width="640"]<ガスレンジ> 1980 <ガスレンジ> 1980[/caption]

同じドイツ人だから国民性みたいなものが出るのかもしれないけれど、なんとなく、トーマス・デマンドの展覧会に行った時のことを思い出しました。 あと、大聖堂のプリントを見て、グレゴリー・コルベールも思い出しました。 会場はグルスキー本人が構成したもので、年代もシリーズも様々な感じで展示されています。 たぶん日本でこの規模のグルスキーの展覧会はもうやらなさそうだから、もう一回観ておきたいな。 SONY DSC