雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

「クリスチャン・ボルタンスキー ーLifetime」にて、かつてのことを鮮明に思い出した

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「きかせて? 一瞬だった?」

そう尋ねられた瞬間、あの日のことを鮮明に思い出した。
白くかすんでいく意識の中で、「ああ、自分は死ぬのだ」と思った。その、なんと呆気ないことか。母が私の名前を叫んでいる。唇が真っ白になってしまったと悲鳴をあげている。そうなのか、今、私の唇は真っ白なのか。でもごめんね、もう目を開けることができない。本当に全く力が入らなくて、まるで強烈な睡魔に襲われたときのような──。

18歳のころ、交通事故に遭って死にかけた。
なんとか生還したものの、今も後遺症には度々悩まされている。

クリスチャン・ボルタンスキーの展覧会へ行った。
会場はいくつかの部屋に分かれて趣の異なる作品が展開されており、そのうちのひとつの部屋で、外套をまとった人型のオブジェから突然質問を投げかけられたのだ。

人型のオブジェは何体も立っており、他のオブジェのセリフを聞いて回るうちに、「ああ、これは死者への質問なのだな」と分かった。
その中で印象的だったのが、上記の「きかせて? 一瞬だった?」と、「お母さんを残してきたの?」、そして「教えて? 光は見えた?」だった。

 そこで、あの日のことを思い出したのだ。

一瞬ではなかったなあ。でも、怖くはなかった。ただ人生というものは、突然、しかも呆気なく終わってしまうのだということにひどく拍子抜けした。
もしあのまま死んでいたら、母を残すことになっただろう。頭を強く打ち、血の気が引いていく私の顔や唇の色を見て、まるで紙のように白くなってしまったと悲鳴をあげていた母。意識が遠のいていく頭で、辛うじて「怖い思いをさせてごめんね」と謝った。光は見えなかった。……というか、眠りにつく感覚と本当にそっくりだった。眠すぎて眠すぎてたまらないときと同様、だんだんと意識を保つのが困難になるのだ。眠りを〈ちいさな死〉と呼ぶのは、言い得て妙だと後になって感心した。

 そんなことを、《ぼた山》という作品の前でぼんやり思った。

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クリスチャン・ボルタンスキー《ぼた山》

ボルタンスキーの作品に、《アニミタス》という映像がある。
真っ白い場所に無数の風鈴らしきものが設えられており、風にあおられてちりちりと鳴り続ける、ただそれだけの作品だ。
これを見たとき、「賽の河原だなあ」と思った。この作品が、この世とあの世の境目のような気がした。

おそらくこの作品を経ることは即ち、河を渡るということだ。
向こう側へ行く、そういうことなのだ。

 

 
咳をする男からはじまる

展覧会は《咳をする男》という映像作品から始まる。

雑多な感じの部屋で、おっさんが「ゲホゲホッ、ゲエッ」とひっきりなしに咳込み、時おり血のようなものを口から溢れさせる、ただそれだけの映像だ。それだけの映像なのだけれど、おっさんがビニール袋のようなものを被っていることや、拘束されているように見えるところ、また、わずかに光が差し込む埃っぽい部屋でたった一人で苦しんでいる様子から、ものすごい緊張感が漂ってくる。
「このおっさんは、このままここで、孤独に苦しんで死んでしまうのではないだろうか……」という居心地の悪い予感がこちらに植え付けられていく。

結局この映像はそのまま終わり、おっさんの生死はわからずオチなどは無いのだが、この映像を観たことによって自分の中に「先ほどまでとは決定的に違う、不吉で孤独な感情」が生まれた。決定的な事件などは一切起きず、おっさんが始終咳込むだけなのだが、何かと切り離されてしまったような気持ちになったのだ(ちなみに同時上映で、おっさんが人形をぺろぺろするだけの映像も流れる)。
後々考えるとこれは禊だったのだなと思う。ここである意味(作家の狙い通り)気分が刷新され、晴れてボルタンスキー展の幕が開ける。
頭上には「DEPART」の文字。出発だ。

しかしこの時私は、自分がどこへ向かって「出発」するのかを理解していなかった。理解しないまま、何の疑問も持たないまま、足をその先へ進めたのだ。 

存在の不在から漂うもの

本展、「クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime」と同時期に、六本木では塩田千春展が開催されている。(いまトピに寄稿したもの↓)

ima.goo.ne.jp

塩田はこの展覧会において一貫して「不在の存在」をテーマに取り上げている。
目には見えないけれど確かに存在する(存在した)ものを、形として、ときに概念として拾い上げ、ダイナミックでイマーシブな空間に展開している。

これに対し、ボルタンスキーの表現はまったく対極的に感じられた。
塩田が「不在の存在」ならば、ボルタンスキーは「存在の不在」だ。
ボルタンスキーは一番分かりやすいかたち、つまり個人の「顔」と「名前」を使って「存在」というものを鑑賞者に認識させる。そしてそれらを敢えて見せることによって、暗に、しかし確実に「不在」をも表現していた。

 彼の作品の前で思う。
「ああ、この人たちはもう、この世にいないのだ」

 

私が初めてボルタンスキーの作品と出会ったのはいつだったか。まだ現代美術というジャンルをそれほど観ていない頃だったように思う。(とはいえ今もそれほど観ているとは言えないのですが……)
暗い部屋に入ったら、粗い粒子でプリントされた肖像写真がピラミッド状に並べられていた。写真と写真の間を縁取るように電球が繋いでおり、そのせいで薄闇の中で写真がぼんやりと浮かび上がるように見える、何とも奇妙な作品だった。
のちにこれが彼の代表的なスタイルだと知るのだが、この時はただ固まってしまった。

怖い。怖すぎる。これ、生きてる人の写真じゃないんじゃないの?
でもすごく綺麗に見えるのはなぜだろう?

神聖と不吉の境目のような、ざわめきが一切消えていくような、不気味なのに清らかに見えるような、この感覚は一体何なのだろう? そう思ったのをよく覚えている。

その時見た作品は小ぶりなものだったのだが、家に帰ってからも他よりひときわ異彩を放っていたその作品が頭にこびりついて離れなかった。
「あのときの感情は一体何だったのだろう?」
その解は今も出ないまま、ボルタンスキーの作品を観るたびに感じている。

ちなみにこの時「もし本当に生きている人の写真じゃないとしたら、そういう写真をアートに使ってしまって良いのだろうか?」と思ったのもよく覚えている。
これに対しては自分の中の倫理観や生理的な感情とそこそこ長い間向き合って考え、納得のいく解に至ることができた。
その作品が自分にとって受け入れられるものであろうと無かろうと、まずこれが何を意図するのか、どういう背景があるのかを考える工程を経ることが、ある種の現代美術の鑑賞には不可欠なのだということを、この時実践的に学べたのは財産だと思っている。

  


話を元に戻す。
「DEPART」のゲートをくぐったあと、ボルタンスキー自身の心音や、壁に磔にされたコート、巨大な顔写真や影絵などが順繰りに展開されていった。こう書くと味も素っ気も無いが、過去にボルタンスキーの展示を観てきた人は文脈がわかるし、作品との再会もあるだろう。そうでなくとも雰囲気がある展示の仕方なので、不思議な不気味さを体験できる内容だ思う。

しかし個人的にはその先の衝撃を推したい。

歩みを進めた先に、少し奥まった部屋がある。そこへ入った瞬間、多くの人はきっと息を飲むだろう。そして、不気味さと儚さと形容しがたい喪失感に静謐な美しさが加わるという、言葉に言い表せないような、なんとも奇妙な衝撃を受けるはずだ。

会場に展示された夥しい数の顔写真。積み上げられたブリキの箱には個人の名前が記されている。高くそびえる巨大な祭壇のようなそれらを見て、(配布されたタブロイドを見ずとも)我々は直感的に理解する。

「ああ、この人たちはもう、この世にいないのだ」

真っ白な部屋に淡々と積み上げられた、ほのかな光をまとう「かつて存在した人たち」の痕跡。かつて感じた、神聖と不吉の境目のような、ざわめきが一切消えていくような、不気味なのに清らかに見えるような、言いようのない感覚でいっぱいになりながらゆっくりと「存在の不在」と対峙する。
本当は見てはいけないものなのに、偶然目撃してしまった施設を見るような気持ちだ。
会場には人がそこそこ入っていたにもかかわらず、まるでほとんど人がいないかのように静かだった。言葉を発しないから静かなのではなく、皆、自分の存在そのものを潜めているような静けさだ。
かすかに聴こえるボルタンスキーの心音と、どこかで鳴っている鈴のような音が耳に届く(そして、咳込む声も遠くに聴こえてきた 笑)。

ともすれば墓のような場所だというのに心地よく、何時間でも居続けたいと思うほど穏やかな空間だった。立ち去りがたいような思いを抱えつつ、そっと次の部屋へ向かう。

 

意図せず転生を体験する

先ほどの部屋を出て、悪魔とも天使ともつかない奇妙な影が行き来する道を歩み進めると、ひらけてはいるものの、暗く虚ろな場所へ出た。

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目の前には大きな黒い物体が山のように立ちはだかり、辺りには外套を着た人型のオブジェが点々としている。
「ちりんちりん」という音が絶え間なく聴こえる。
会場をうろついたところで、耳元で声がした。 

「きかせて。一瞬だった?」
ひとつの人型が、私の隣で囁いたのだ。
あまりに断片的な質問のため、何のことかさっぱり分からなかったが、他の人型からも声が聞こえたので順繰りに質問を聞いていく。

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クリスチャン・ボルタンスキー《発言する》

「お母さんを残してきたの?」
「教えて。光が見えた?」

ああ、そうか。これは死者への質問なのだ。

浜辺に設えられた無数の風鈴がちりちりと鳴っている。曇天の風にあおられて、ちりちりちりちりと絶え間なく鳴っている。

まるで、賽の河原だ。

 

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クリスチャン・ボルタンスキー《アニミタス(白)》

そこでやっと理解した。
私がくぐった「DEPART」のゲートは、ボルタンスキー展が始まりますよという合図ではない。あれは「あの世」の入り口だったのだ。そして要するに私はもうあの世を歩いている死者ということなのだ。
怪談を聞いていると「死者は自分が死んだことに気づいていない」という話に出くわすことが多いが、まさに自分はその状態だったと言える。死者となった私は、自分が死んでいることにも気づかず、様々な部屋を通りながら、賽の河原までやってきて初めて「ここはあの世だ」と知ったというわけだ。

なんだ、そういうことか。

静かな諦観と穏やかな虚無に凪いだ気持ちのまま、しばらく風鈴がちりちりと鳴るのを見ていた。
再び人型の前に立つと、先ほどと同じ声で「教えて? 一瞬だった?」と尋ねられる。しかし自分を取り巻く状況を把握した今、この質問が先ほどとは全く違うように聞こえた。つまり、インスタレーションの一部ではなく、実際に投げかけられた会話のように聞こえたのだ。

そこで冒頭のような過去を鮮明に思い出した。

オカルトが好きなわりには幽霊を信じていないし、肉体が消滅すればそこで終わりだと思っている。だからあの世なんていうものはないし、輪廻も転生もないというのが自分の考えだ。
とはいえ、死後の世界というものを想像したことがないわけじゃない。もし死後の世界というものがあるのならば、きっとこういった抑揚のない、茫とした、感情が凪ぐようなものなのだろうと思う。

ただひたすらに、誰と喋るでもなく、泣くでもなく、笑うでもなく、ぼんやりと風の音を聴いて過ごすのだろうというのが私の中にあるイメージだった。
だからボルタンスキーが展開した空間を見て、それがあまりにも自分のイメージに近い「淡々さ」だったので、思わず呆けたように佇んでしまったのだ。

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クリスチャン・ボルタンスキー《ミステリオス


会場には、海辺で延々クジラの声を模した音を聴く映像作品も流れているのだが、この「延々」具合もまさに自分のイメージするあの世であった。
私はしばし死者としてそこに滞在していたのだけれど、一方で現実的な自分もおり、そろそろ行かねば……ということで立ち上がった。

そして立ち上がった先に「来世」を見たのだ。なんと、生まれ変わるところまで用意されているとは。

 

 感情を言葉にまとめにくい展覧会

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クリスチャン・ボルタンスキー《白いモニュメント、来世》

「来世」をくぐると先ほどとは一変し、薄暗い中に鮮やかな金色や光を持った作品が現れた。先の茫洋とした空間とは異なり、エネルギーやスピードを感じさせる。
これらはもしかしたら「来世に生まれ変わることが決定した魂が歩む道のり」を表現しているのかもしれない。しかしなんというか、申し訳ないがそれほどピンと来なかった。ここより以前の空間が、あまりにも自分の心象風景にドンピシャだったからかもしれない。

そんなわけで何となく作品を観て出口へ進み、なんとなく「生まれ変わって」しまったのだが、はて、この展覧会を観たあとの感情を何と言葉にまとめたらいいものだろうかと悩んでしまった。

つまらなかったとか、分かりにくかったというわけでは決してないのだが、じゃあどう思ったのかと訊かれたら答えに窮してしまう。
そんなわけで長文のブログになってしまったのだが(長いのはいつものことですね)、要するに「ひとことで言うと」ができない展覧会だった。
ひと部屋ずつの感想なら言える。けれど全体を通してとなると、あまりにも広すぎてまとめられない。誰かが「胎内廻りみたいだった」と言っていたが、それも言い得て妙だなと思う。たしかにあの、胎内廻りから出てきたときのような気持ちと、会場を出た気持ちは似ているかもしれない。

ともあれ私は輪廻を歩き、転生した。

実はつい数年前も死ぬかと思うようなことがあったのだけれど、それは本当に恐ろしくて苦しくて辛くておまけに事故と同様に今も後遺症が残るほどのものなので、そっちの方が本展でフラッシュバックしなくて本当に良かったなと何度も思った。

とてもセンシティブな問題ではあるが、できれば死は、穏やかな方が良い。願わくは花の下にてなんとやら。またはピンピンコロリ、これですな。


ところでボルタンスキーの作品と言えば、十日町にある「最後の教室」に行きたいなと思いつつまだ行けていない。
近いうち計画して、行ってみようかしらね。

 

概要

「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」

会期:2019年6月12日(水)~9月2日(月)
会場:国立新美術館 企画展示室2E