雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

「コンスタブル展」で雲を眺めた話

先ほどiPhoneの写真フォルダを遡ったところ、雲を写した写真がたくさん収められていることに気がついた。

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フィルムの時代から空を被写体にした写真を多く撮ってきたが、携帯電話にカメラ機能が付いてからというもの、その頻度は比較にならないほど増えた。

それくらい、空はモティーフとして身近なものになっている。

画面の4分の3を空が占める構図は今や珍しいものでないし、なんなら空のみで構成される作品もある(阪本トクロウさん最高ですよね)。
空を単独のモティーフとして描いた最初の人は、誰だったのだろう?

(※以下、会場の写真は許可を得て撮影。作家名のないものは全てコンスタブル作品です)

 

三菱一号館美術館「コンスタブル展」を観た。

mimt.jp

このジョン・コンスタブルという画家は、それはそれは魅力的な空を描く。もう観ていて気持ちが良くなるような空だ。
そしてその描き方は、私たちが自分の慣れ親しんだ風景が良い空をまとって佇む姿をSNSに投稿する行為にとてもよく似ている。この空、この雲や光がここにある状態で収めておきたいという、「今」を見せる描き方なのだ。

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《ブライトン近くの海》1826年 テート美術館

しかしこの展覧会は、単純に作品を味わうだけに終わらない。
鑑賞者は歩みを進めるたび、画家の才能が「名声」という呪いによって雁字搦めにされていくのを、絵を通じて目の当たりにしていかねばならない。

そうなのだ。コンスタブルは不自由の無い環境にいたはずなのに、絵で名を残したいと思ったばかりにその生涯は焦燥に満ちたものになってしまった。

展示室の中で何度「誰か彼の呪いを解いてやってくれ」と願ったかわからない。ここまで画家の複雑な思いに触れる展覧会は久々だ。

描かれた牧歌的な風景とは裏腹に、呪いに蝕まれながら、それでも絵筆をふるい続けたコンスタブル。

彼が最後までモティーフとして手放さなかった「故郷」は、幸せだった頃への憧憬か。またはどんな思いによって描かれ続けたのだろうか……?

──とまあ、鑑賞後の高いテンションのままに暑苦しく書いてしまったけれど、暑苦しくならざるを得ないというか、後半はもう「ああ~……コンスタブル~~(泣)」となってしまう展覧会なのである。

彼は1776年、イングランド東部にあるサフォーク州イースト・バーゴルトに生まれる。田舎ではあるものの、父親は製粉業の社長で見渡す土地は全部自分の家の不動産という、実家の太い人だった。彼はロンドンから100キロちょっと離れたところにあるこの地元が大好きで、その画業を通じて、とりわけ前半はほとんど地元ばかりを描いている。

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《デダムの谷の眺め》1802年 郡山市立美術館

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《デダムの谷》1805ー17年 栃木県立美術館

グランドツアーが人気の時代ではあったものの、この頃のイギリスでは風景画の地位はまだ低く、絵画的ヒエラルキーで言うと歴史画>肖像画>風俗画>風景画>静物という感じで、お値段も然り。だから風景を描いていると、「ああ肖像画を描けないから風景やってんのね」みたいな評価をされてしまったのだそうな。

そんなわけでコンスタブルもご多分に漏れず、初期の頃は「肖像が描けないわけじゃなくて、敢えて風景やってるんですよ」というアピールのためかこのような絵も残している。身内の肖像だったり、地元のジェントリ層(イギリスにおける下級地主層)から依頼を受けて描くこともあった。

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左:《アン・コンスタブル》1800ー05年年ころか1815年頃 テート美術館
右:《ゴールディング・コンスタブル》1815年 テート美術館
コンスタブルのご両親です

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《マライア・ビックネル、ジョン・コンスタブル夫人》1816年 テート美術館
コンスタブルが40代になってやっと結婚できた美人の彼女

でも本心はやはり風景に行っていたから、隙あらば風景画を制作していたようだ。
実際会場に行くとわかるのだけれど、同じような場所からの眺めを何度も描いている。けれど決して退屈に感じないのは、流れる雲の調子とか陽の射し具合とか、おそらく「あ! 今のこの感じめちゃくちゃ良いな⁉」と描かずにはいられない気持ちで描いていたんじゃないかな? というのが伝わってくるからだろう。

それは冒頭にも書いたけれど、我々がふと何気ない風景を見て、その陽射しの感じや空の表情がとても良くて、思わず写真に残したくなるような、そんな気持ちに似ている気がするのだ。

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《ヤーマスの桟橋》1823年 テート美術館

印象派の画家たちが屋外で思い思いに絵を描いた頃より約70年も前のこの時代、コンスタブルは豚の膀胱袋に絵の具を詰めたものを持って繰り出し、あろうことか大型の作品を屋外で制作することを試みた。不便だろうと何だろうと目の前のもの、つまり自然こそが「あらゆる想像力の源泉」として、それに直接向き合い、そのまま描くことで作品の完成度を高めようとした。

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《フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)》1816-17年 テート美術館
フラットフォードの橋からコンスタブル家の製粉所を臨む。地面には砂書いた文字を模してサインが書き込まれている。上京ならぬ上ロンドン直前に描いた地元愛に満ちた絵。

こういったコンスタブルの活動やそこから生み出された作品は、後々海を渡ったフランスでバルビゾン派の画家たちから注目されたりするのだけれど、残念ながら国内では「コンスタブルすげえ!」的なムーブメントは起きなかった。

とはいえ、彼が鳴かず飛ばずだったわけではない。

ずっと好きだった同郷のマライア・ビックネルと40歳の頃結婚してロンドンへ転居すると、家族を養うために肖像画を手掛ける一方で、風景画も精力的に描き続けた。ロイヤル・アカデミーの展覧会での評価も良かったし、神絵師とまではいかずとも、それなりに成功していたようである。

けれど功績がパっとしないように見えてしまうのは、どうしても同世代の画家・ターナーがレベチすぎるからのように思う。ターナー、本当に漫画のキャラみたいな活躍の仕方なんだよな。あと売り方が本当に上手い。

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ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《ペンブローク城》1798年 テート美術館

コンスタブルより1歳年上のジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、わずか14歳にしてロイヤル・アカデミー美術学校に入学し、26歳という若さで正会員になっている。一方コンスタブルは53歳で正会員に選出。

2人の間に深い交流があったわけではないし、野心家のターナーがコンスタブルをどこまで意識していたかはわからないが、コンスタブルはアカデミーのとある会でターナーと同席した際、ターナーの「素晴らしく豊かな精神」に感動したらしく、妻にその旨を報告している。

 

そんな2人の間に、イギリス絵画史上かなり大きな衝撃を残す事件が起きた。

1832年のロイヤル・アカデミーの夏季展覧会で、コンスタブルは15年ほどの歳月をかけた大作《ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)》を出品する。その隣にはターナーの《ヘレヴーツリュイスから出向するユトレヒトシティ64号》が並んでいた。

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右:ジョン・コンスタブル《ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)》1832年発表 テート美術館
左:J.M.W.ターナー《ヘレヴーツリュイスから出向するユトレヒトシティ64号》1832年 東京富士美術館(そう、この絵は東京富士美術館の収蔵品なのです!)

ターナーはこのほかにも数点出品しており、彼にとってこの絵は力を入れた順番でいえば3番目くらいの作品だったらしく、画力は高いもののとてもシンプルで、ある意味地味とも言える印象だ(とはいえ、イギリス名誉革命を扱ったバリバリの歴史画である)。
一方でコンスタブルは15年も力を入れ続けた作品なので(長年あたためたものを一旦白紙に戻して再構成したりとシン・エヴァンゲリオン的なことをやったそうだが)、そりゃあ豪華である。むしろ豪華に盛りすぎてとっ散らかった印象があり、コンスタブルの良さが発揮されていないという残念な結果になってしまっている(ように思える……)。

更にこの絵には歴史画的な意味合いやら王室を称賛する意味なども込められており、今までの路線とは全く違った方向からも攻めてきている(そもそもロンドンに住んだりしていたにもかかわらず、ロンドンがあまり好きでなかった彼はこの絵くらいしかロンドンを描いていない)。

コンスタブルは焦っていたのではないだろうか。
念願だったアカデミーの正会員になることができた。これで少なくとも世間の批評を過剰に気にせずに絵に専念することができる。けれどもう56歳。4年前に最愛の妻を失い、喪失感が拭えない。そしてその忘れ形見である7人の子供たちを自分1人で養わなければならない。
自分にはあまり時間がない。もっと名声を得て不動の地位を築き、後世にも名を残すほどの巨匠にならなきゃいけないんだ──そんな焦りから、おそらくあまり興味はないけれど高評価を狙うために、この主題を選んだのではないだろうか。

大きな画面に乗せられた華々しい色彩は煌びやかであるため、ぱっと見ターナーの作品よりも鑑賞者の目を引きつける。

ターナーはそれが許せなかったのだろう。
はっきり言ってこれは一番勝負したい作品じゃない。でもな、だからと言って格下のお前が俺より目立とうなんざ、あり得ねえんだよ。
そんな風に思ったのかもしれない。

「ヴァーニシング・デー」と呼ばれる最後の手直しが許された日、ターナーはその場で親指に赤い絵の具を乗せると、自身の絵の中央にそれを塗り付けた。
瞬く間に海面に出現した真っ赤なブイは、たった一瞬にして画面を引き締め、コンスタブルの絵に注がれた視線を奪い取るかのような威力を発揮する。

その横で最後の手直しをしていたコンスタブルは呆気にとられただろう。15年間積み上げてきた努力が、たった一瞬で色褪せたように感じただろう。
──これが天才か。

唇から散弾銃ならぬ、親指から弾丸。この時の出来事を、コンスタブルはターナーはここにやってきて、銃をぶっ放していった」と語っている。

さて、いざ展覧会の幕が明けてみると、コンスタブルの努力も虚しく、この作品への評価は散々だった。

もうこの辺りから「コンスタブルにかけられた呪いよ、早く解けてくれ」と願わずにはいられなくなってくる。
彼が、彼の本来の姿のままに絵筆を振るっていたとしたら、この対決の結果は全く別のものになっていたんじゃないかしら。
ターナーは天才なのでそこは仕方ないとしても、コンスタブルはコンスタブルで、全く異なる爪痕を美術史に残すことができたのではないかしら。

だって、コンスタブルの描く空はどうしようもなく素晴らしいから。
青みがかったグレーの雲を湛えた空は、一瞬にして観る者をその風景の中に連れていく力を持っている。だからどうか、自分が良いと思ったものを見失わないでくれ。もっともっとあなたの描きたい風景を見せてくれと胸が痛くなってしまうのだ。

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《雲の習作 ──ロバート・ブルームフィールドの詩とともに》1830年代 テート美術館

ちなみにこの「対決」の並びは、ロンドン以外では初の再現となる。
コンスタブル展ということもあって完全にコンスタブル寄りの気持ちでこの2点を観てしまうんだけど、だからだろうか? ターナーの天才っぷりに「ウワーッ やりやがった!」となるとともに、ちくしょう、やっぱかっこいいなぁと思ってしまったのでした……(一応、ターナーのこの行為は、「ターナー君、サイテー!」的な認識となっているようです。まあ、そりゃそうだわな)。

 

さて、ここから先は私個人の感想で言うと辛い展開で、最後までコンスタブルを苛んだ呪いは解けなかったことに頭を抱えたくなったりするのだが、それでも時折のぞく「あの頃」の良さに彼の中での葛藤を見たりもした。

身体を壊し、そう長くはないことを何となく悟っていたのかもしれない。一応画壇の重鎮的な存在になっていたとは言え、やはりもう一声欲しい。
そうは言っても生前ガッツリと名を残すのは難しいと半ば諦めたのか、1点ものの作品ではなく、広く人にいきわたるように版画(メゾチント)の作品集の出版などもしている。

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ディヴィッド・ルーカスによるコンスタブルの版画
上:《真昼》、下:《ヤーマス、ノーフォーク》ともに郡山市立美術館

あるいはまだワンチャンあることに賭けてなのか、「みんなが見たいであろうイギリスらしいイギリスの風景」を描いたりもしている。

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《ヴァリー・ファーム》1835年 テート美術館

実はこの展覧会を観に行く前日に「ニコニコ美術館」にて本展の特番を観たのだが、ゲストで来ていた石原良純さんが「コンスタブルはあざとさを狙うと空の面積が減る」と仰っており、実際会場で作品を観ていたらまさにその通りで良純鋭いなと思った。

あざとい絵は情報量が多くなりすぎて、見晴らしが悪くなる。初期の頃からそうなのだけれど、コンスタブルの「良い絵」はそのほとんどが見晴らしが良く、視界がひらけ、そこを風が通り抜けるようなものになっている。

たぶん、コンスタブルの30~40代くらいの作品を観ていなかったら、晩年の絵を観て何の違和感も覚えずすんなり受け入れていただろう。悪くはないのだ。技術も高い。そしてイギリス特有の、晴れていてもどこか暗い感じや、牧歌的な風景は趣がある。
けれどこの人が描く、おそらく本当に描きたい絵の素晴らしさを知ってしまったら、もったいないと思わずにはいられない。繰り返しになるけれど、解放されたコンスタブルの本気はたまらなく良いからだ。

 

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《虹が立つハムステッド・ヒース》1836年 テート美術館

展覧会の最後は《虹が立つハムステッド・ヒース》で締めくくられている。
ハムステッドとは、ロンドンに出てきたは良いものの、どうもロンドンの喧騒に馴染めなかったコンスタブルが夏の間住んだ場所で、彼はここでのヒース(荒地)の眺めを愛した。
初期のような「見たままを描く」やり方ではなく、実際にここにはない風車を描いていたりとピクチャレスク(絵として映えるよう、実際そこにないものを描き加えたりすること)な作品となっているが、それでも空はたっぷりと描かれており、ヒースと空を見渡せる状態が描きたかったのだろうというのが窺がえる。

 

あと半世紀後に生まれて好きなようにやれていたら、この人は革命を起こした画家として美術史に名を残していたんじゃないだろうか。
コンスタブルが画家として活動した時代と、空や雲に対して研究がなされるようになった時代はほぼ同じだ。

コンスタブルの時代にも空や雲にスポットを当てた画家はいたけれど、それをもっと突き詰めていたら、そして突き詰めることに世間の理解があったとしたら、もしかしたら彼は空の覇者になっていたかもしれない。

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アレグザンダー・カズンズ《嵐の前》1770年 テート美術館
コンスタブル以外で好みの空を描いていたのがこの人。

彼の没後、とある批評家が彼の作品を(とりわけ初期の作品を)絶賛したそうだが、こっちとしては「もっと早くそれ言ってあげてよ!」の気持ちだった。連載打ち切りが決まってから「この漫画面白かったのに」と言っても遅いように、画家が亡くなってから称賛しても遅いのだ。
この評論家はそのほかに「彼のすべての作品は、きわめて高い評価を受けることになるだろう」と没後評価されることを予言したが、その通り、現在ミュージアムショップではコンスタブルが描いた雲をあしらったマグカップが恐ろしい勢いで売れており、物によっては完売し、追加の発注がかけられているという。さらには図録の売れ行きも好調らしい。

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コンスタブルが描いた雲をあしらったマグカップ。本当に売れ行きが凄まじい。


 はるか東の島国で、あなたの雲が愛されていますよと言ったら、彼はどんな顔をするだろう?
少し笑って大好きな妻に報告をするかしら?
願わくは彼の描いた空が、彼が望んだとおり後世まで「コンスタブルの作品」として、この先も残されていきますように。
彼が描いた雲の前で、そんなことを祈ったのでした。

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《チェーン桟橋、ブライトン》1826-27年 テート美術館


テート美術館蔵 コンスタブル展
●会期:2021年2月20日~5月30日
●会場:三菱一号館美術館