@山種美術館 (写真は美術館の許可を得て撮影しています)
この画像を見ると分かるのですが、「RYŪSHI」とローマ字で書いてある。
これは英語が入っていた方がビジュアル的にかっこいいから、という理由ではなく、川端龍子を知らない人は、つい「りゅうこ」とか「たつこ」と読んでしまうことが多いからだそうな。
そういえば雪村展も「ゆきむらではなく、せっそんです」とサイトでアピールしていますね。(そしてこちらも“SESSON”と書いている)
そんなわけで川端龍子展。名前は知っているし、作品も幾つか知っているけど、どんな画家かって訊かれたら「う~ん???」となってしまう方もいるでしょう。私はまさにそれでした。
本展は「正しい名前を知ってもらおう」というところがスタート地点なので、龍子デビューの方も大いに楽しめる構成です。……が、なんというか、普通の回顧展とはちょっと違う。
展覧会タイトルにも入っている、「超ド級の日本画」というフレーズ。これがすべてを物語っていると言っても良いかもしれない。本当に「超ド級」だったんです。
超ド級とは!?
何が「超ド級」かって、まずでかい。
でかい。
でかい。
基本的にでかいんですよ。もちろん普通のサイズのものや、小さいのもあるんですけど、基本むちゃくちゃでかい。
そして不思議且つインパクトがすごい。
上で紹介した《香炉峰》。所謂戦争画ですが(とはいえ軍の委嘱で描いたものではない)、偵察機の半分が透けている。東京国立近代美術館では戦争画を展示するフロアができ、よってさまざまな戦争画を観る機会に恵まれるようになりましたが、こういった描写は他にないのでは。
龍子的ウィットの魅力
「日本画の範囲に於いて飛行機をどうやって、どこまで表現し得るか」を課題として取り組んだこの作品ですが、“機体を透明とした理由”については、「(機体の)迷彩に背景の自然の山を利用した」と龍子自ら語っています。迷彩柄は本来ステルス機能があるものであり、物体を透過させることで、それを表現しているという。
龍子は「(機体が透明なのは)作者のウイットによるものである」ともしており、そう言われてみると、それぞれの作品には龍子ならではの機知に富んだ表現が使われています。
例えばこちら。中尊寺金色堂に安置されていた藤原氏四代の遺体の学術調査が行われ、そのニュースを聞いた龍子が創作欲を掻き立てられて翌年現地取材を行って完成させたもの。
ミイラと共に蝶や蛾を配して、《夢》というタイトルを持ってくるそのセンス。
これは芭蕉が平泉にて詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」に由来しているわけですが、「夢」という言葉を切り取ることで、遺体というともすれば不気味な題材であるにもかかわらず、「ああこの仏様は、美しい浄土の夢を見ているのかもしれない」と観る者を幻想的な気持ちにさせてしまう。
この《龍巻》も然り。
もともとこういう構図ではなかったそうですが(展示されている状態とは天地が逆)、ある日ふとひっくり返してみたところ、あら、こっちの方が良いんじゃない?ということになり、急遽“龍巻で空に巻き上げられた海洋生物が海に落下した場面”に変更。
龍子なりの解釈、頓智が活きているのです。
こんな日本画観たことあります?
水面から海中に落下した際に生じる空気の泡。それがうねりにうねっていて、写実的というわけじゃないのに、リアルな迫力が凄まじい。このダイナミズムも龍子の魅力のひとつです。ちなみにこの絵の前に人が立つと、水族館の水槽の前に佇んでいるように見えます。
本展には出品されていませんが、《水雷神》(大田区立龍子記念館蔵)という魚雷を描いたものも一風変わっています。
鬼のような姿の神々が巨大な魚雷を抱えて暗い海の中を進んでいく。このまま突撃したらきっとその命は爆発とともに吹き飛んでしまうだろうに、その目はまっすぐ進む先しか映していません。
特攻隊による捨て身の攻撃や、戦争で失われていくあらゆるものへのやり切れなさを、このイメージに重ねたのでしょう。直接的なものを描かずに、直接的なものを描いた以上の訴えを鑑賞者に与えることに長けている。そんな印象を持ちました。
「ということは、川端龍子はインパクトを与えることや想像力に優れていた画家なのかしら?」
──と思われるかもしれませんが、それだけではありません。
意外な経歴
龍子の経歴を見てみると、かなり面白いことが分かります。
もともと龍子は洋画から入った人だったんですね。それまで誰かについて絵の勉強をしたわけではなく、専ら学校教育の一環として学んできただけのようですが、かなり上手い。
その後19歳になってはじめて黒田清輝率いる白馬会に入り、その後浅井忠や吉田博らが属した太平洋画会に移っています(しかし3カ月で退所)。この2つは互いにライバル視していた団体だったので、移行した経緯がちょっと気になるのよね……。
で、注目すべきはこの頃の仕事。結婚したり子供が生まれたりして家族を養う必要があったのでしょう。会社員として新聞や雑誌の挿絵担当や編集の仕事に携わっていました。
この時の挿絵の仕事っぷりがかなり良い。
当時龍子の挿絵は人気があったそうですが、読者から「龍子先生が男性だったとは……!女の人じゃなかったんですね」的なお便りを貰うこともあったそうです。もうこの頃から名前ネタは川端龍子あるあるだったのね。
このように、“読者からのダイレクトな反応”というものを仕事を通じて龍子は経験していました。
今のようにSNSなど無い時代ですから、画家一本でやっていると評論家や同業者の反応は耳にしても、一般の人の感覚はなかなか得ることができない。自分のセンスや作品を大衆がどう思っているかを知ることができたというのは、いろんなアンテナが鍛えられたことでしょう。
また、生涯龍子の作風に垣間見る「ジャーナリスティックな視線」がこの仕事で芽吹いたのも大きなポイント。
先に紹介した《夢》。ミイラの学術調査をやると聞いて現場に向かうところもそうだし、昭和25年に起きた金閣寺放火事件をモチーフに描いた《金閣炎上》(7/25~出展)も然り。報道的な姿勢を自分の絵に落とし込めたのは、この経験があってこそだと思います。
龍子が極めた「会場芸術」とは?
さて。このあと龍子は文展(今の日展)に出品したりして精力的に活動するものの、渡米して日本の洋画がまったく受け入れられないことにショックを受けると同時に、ボストン美術館で日本の古美術の良さに目覚め帰国。ここで日本画に転向します。
そしてここから院展(日本美術院の展覧会)に出品し始めて院友、そして同人へとステップアップするのですが、運営の方向性を含めた諸問題で横山大観との確執があり院展を脱退。その約半年後に自分の団体「青龍社」を設立します。
青龍社第一回目の展覧会会場を院展会場のとなりにぶつけてきたりと、最高にロックなことをやったりしているんだけど、そこまでするなんて院展との間に一体何があったんだろうか……。
ちなみに日本美術院在籍中に《火生》という作品を発表していますが、これがめっちゃ酷評されまして、「これじゃ会場芸術だ」と揶揄されます。
ここで言う会場芸術とは「作品がでかすぎ・色がきつすぎ」の意味で、完全なるディスリスペクト。しかし龍子はこの言葉を逆手に取って「どの作品もみな展覧会への作品―展覧会を目的として描いた制作―」の意味として、以後それをスローガンに活動を行います。青龍社はまさに「会場芸術」をモットーとした団体だったのです。
印象派もそうだけど、悪口を逆手にとってジャンル化する流れですな。
そんな主張のもとで発表されたのが《鳴門》。まさに、でかい!鮮やか!広い会場で観るとすごい!を地で行く作品。
なんと高価な群青を3.6kgも惜しみなく使用! 金もふんだん使っており、見る角度によって水しぶきがきらきらと輝きます。なんといってもダイナミックでスピード感のある作風は、院展では見ない表現。多くの評論家がこの《鳴門》を絶賛し、これを皮切りに龍子は次々と大作を発表していきました。
そしてこういったダイナミックな動きにジャーナリズム性を備えた作品が《爆弾散華》です。龍子宅、なんと終戦の2日前に爆撃されているという……。
幸いアトリエは無事、龍子も防空壕へ逃れていたため助かりましたが、母屋は全壊、庭にも大きな穴が開き、使用人が2人亡くなりました。その、庭に植えられた野菜が破壊される瞬間が描かれています。
縦2.5メートルの大画面に描き留められた野菜の吹き飛ぶ瞬間は、まるで報道写真のようです。空中に放り出され、木端微塵になる野菜は命のメタファー、または戦争の暴力性、むごたらしさを表したものなのでしょう。爆発の衝撃を裂箔や砂子で表現しています。
鮮やかな色彩が目立つ会場で、ひと際シックな存在感が印象的だったのが《草の実》。今回の展示で好きな作品は? と訊かれたら、迷わずこの作品を挙げますね。
これがとにかくかっこいい。奥行がすごい。この感覚は既視感あるなあと思っていたら、山下裕二先生が「ネガのような」と仰っていましたが、まさにネガポジが反転したような、ソラリゼーションの世界なのです。
《草の実》は前年に描いた《草炎》(東京国立近代美術館所蔵)が好評で、同工異曲の作品を作ってほしいという個人の依頼に応えて制作したもの。濃紺の絹地に焼金や青金、プラチナを駆使して秋の草花が持つ陰影を見事に表しています。
この技法は平安時代の中尊寺経などに見られる紺紙金泥経から着想を得ているそうですが、金泥って、文字を書くのはさておき絵に用いるには扱いがとても難しいらしい。でも、そんなことを微塵も感じさせないほど、女郎花の葉の質感などを優美且つ大胆に描いた、凄みを持った作品でした。
こんなふうに会場には大作がばんばん登場しますが、小さな作品ももちろんあります。
娘のために描いた琳派を思わせる《春草図雛屏風》や、《月鱗》という水面に映った月があたかも天使の輪のように鯉にかかっている絵も良かった。水を描かずして水を表現するところに龍子のウィットが効いています。
柔らかな小品、そして『ホトトギス』での活動
また、龍子は高濱虚子とも交流があり、62歳で『ホトトギス』の同人となりました。「俳句はスケッチの変形」として一日一句を必ず読むようにし、絵と俳句を合わせた短冊の作製も行っていました。実際雑誌『ホトトギス』の表紙を龍子が描いたりもしています。
この短冊もとても軽妙で素敵なんだけど、同じように年賀状が素晴らしくてですね……。
犬の絵がもう最高なんだけど、龍子はワンコ大好きだったみたいで、ポートレートもワンコと一緒に写ってて可愛いのです。
可愛いと言えば、印象的なのが「松竹梅」と「雪月花」のエピソード。先に大観と確執があって日本美術院から抜けたと書きましたが、戦後、大観や川合玉堂と三人展を開いたりもしていたそうです。それらは「雪月花展」、「松竹梅展」と名付けられ、それぞれのお題を三人各々で描くというもの。龍子は大観や玉堂という二大巨匠とグループ展ができるということが嬉しかったようで、鼎談の際はいつも上機嫌だったとか。可愛いなあ。
図録に「雪月花展」の様子を写した写真が掲載されているんだけど、大観だってめちゃくちゃ笑ってて楽しそうなんですよ。仲良きことは美しき哉。
「龍子」という雅号の秘密
さて。最後に、なぜ川端龍子は「龍子」という雅号を使ったのでしょうか。
龍子の父親はかなりの美男子で、女遊びが激しかったと言います。そんなある日、母親ではない女性と住むことになった龍子。父親を憎み、不潔だと軽蔑し続けました。
「自分は人の子ではない、龍の子だ」
そういった憎しみや悲しみの果てに自らつけた「龍子」という名。
この名を名乗るとき、彼はどんな気持ちだったのでしょう。
そういった反動もあってか、龍子は自分の家族を大切に守りました。
孫娘が学校の工作で作ってきた紙の手提げ袋に絵をつけてやったり、息子が戦地へ赴く際には虎の絵を描いて無事帰還するようにと願ったりしました。(残念ながら息子は戦地で亡くなってしまいます)
超ド級の画家・川端龍子。大きな作品や独特な画風から、もっと破天荒な人なのかと思いきや、家族思いで子煩悩だったり、辛い幼少時代があったり、そして挿画家としても活躍した時代があったりと、実はかなり様々な面を持った画家なのだということが分かりました。
そういった日々があって、彼は“超ド級”に成ったのでしょう。
そんな龍子の軌跡を振り返る展覧会が、大田区立龍子記念館にて11月3日から開催されます。今回の山種美術館での展覧会にも多数出品をしている龍子記念館。こちら、龍子が生前自分で建てた記念館なのです。
没後家族や周囲が記念館を建てることはあっても、生きているうちに自分で建てたのは龍子が日本で初めて。ちょっとアクセスしにくいけれど、所蔵品は素晴らしいものが揃っています。
川端龍子 没後50年特別展
・会期:11月3日(金・祝)~12月3日(日) 月曜休館
・会場:大田区立龍子記念館
・開館時間:9時~16時30分(入館は16時まで)
http://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/tabid/218/Default.aspx
そう言えば7月16日の日曜美術館(Eテレ)は、川端龍子展特集。現代美術家の会田誠さんがゲストです。《香炉峰》と会田さんの《紐育空爆之図》を絡めて紹介するのかな。
でもね、それとは別に、会田さんの作品から受け取る感覚と、龍子の絵から受け取る感覚って時折すごく似ているのです。なので会田さんがゲストと聞いた時はびっくりしました。
会田さんの、あの世界に対して真摯なところ。作品は衝撃的だけれど、この人は本当に優しい人なんだなというのが伝わってくるところ。龍子に似ている気がします。
そんな会田さんが、どのように龍子の絵を観るのかとても楽しみです。
概要
会期:~8月20日(日) 月曜休館 ※ただし7/17は開館、7/18は休館 (前期:~7/23まで 後期:7/25~8/20まで)
会場:山種美術館
開館時間:10時~17時(入館は16時30分まで)
日本画の専門美術館 山種美術館(Yamatane Museum of Art)
忘れちゃいけない展覧会の名物・Cafe椿のオリジナル和菓子。
今回も、目にも舌にも楽しい逸品が勢揃い。また、”ひやしあめ”や”季節のにゅうめん”など、ちょっと変わったメニューもありますよ。鑑賞後の一休みにおすすめです!