雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

ゴッホ展へ行き、この人 生きづらかったろうなあとしみじみ思った話

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 仕事の帰りにゴッホ展へ行った。
 いつ上野へ行っても行列を成していたゴッホ展」(上野の森美術館
 「空いてる日に行こう」と様子を見ていたら、あっという間に会期終了目前となってしまった。日中死に物狂いになって仕事を終わらせ上野へ向かうと、そこには今までとは比べ物にならないほどの大行列が形成されていた。

  美術館前でつづら折りができ、さらにはそれが伸びに伸びて、観音堂を過ぎるくらいまで続いている。
 うーん、どうしよう。こんなに並びたくない。ハプスブルク展に行くか? と暫し葛藤したものの、そうは言ってもどうせ明日は明日で大行列だろうからと腹を括って並んだ(翌日会場前を通ったら、更にとんでもない行列ができていた)。

 ゴッホ、人気ありますよね。こういう言い方はよくないが、彼はピンでも人を呼べる画家の一人である。
 正直私はゴッホの絵はそれほど好きではない。けれど、何故だか彼の展覧会を観た後は、しばらくの間彼のことを考えてしまう。以前観た神展覧会ゴッホゴーギャン。これもかなりの間引きずることになった内容だった。

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 人間関係云々で言えば、対ゴーギャンが有名なゴッホですが、他の人ともかなりいろいろあったようで、「この人、相当生きづらかっただろうなあ」としみじみ思った。
 今の世の中のように、(まだ十分とは言えないけれど)多様性という言葉が叫ばれていない時代で、この状態でやっていくのは相当キツかったのではないだろうか。
 人が好きなのに人との距離が上手く取れない。もっと近づきたいのに、すぐ破綻する。
 なんで? どうして? と何度も自問し、苦しんだのだろう。
 もう少し客観的に自分の考え方の特徴を把握できる機会があれば、もっと違った生き方ができたかもしれない。この展覧会を観て私が一番に思ったのが「生きづらかったろうなあ」という感想だった。


 生きづらい中で彼なりに命を極端に削りながら、そしてクソデカ感情を持て余しながら模索した結果が、皮肉にも名作と謳われるこれらの作品であり(テオの奥さんの尽力あってこそだが)、こうして大行列を生むほど著名な作家として後世に遺ったということなのだろう。
 それが彼と周囲の人の幸せにとって、良いことであったかどうかは別として。

 ハーグ派の時代

 今回のゴッホ展は「ハーグ(オランダ)時代」「フランス時代」の前後編にざっくり分けられ、それぞれの地でゴッホに関わった人(画家)たちとの繋がりから、いかにしてゴッホゴッホに成りえたかを紹介していた。

 展覧会はハーグ時代から始まる。
 ゴッホは幼少の頃より絵を描くことが好きで、大人になってからは画商で働いていたこともあった。しかし諸々の理由から解雇されてしまい、この後も転職を繰り返したり宣教師になろうとしたりするのだけれど、主に周囲との考え方の違いなどで悉く上手くいかず、最終的に義理の従弟である画家 アントン・マウフェを頼ってハーグへ赴く。
 マウフェはハーグ派のリーダー的存在であったため、この流れがゴッホがハーグ派の絵を描くことへのきっかけとなった。

 さて、ハーグ派時代のゴッホの絵はなかなかに良い。
「苦悩全開! 貧乏暇なし!」みたいな絵は重すぎて暗い気持ちになってしまうが、《雨》(ハーグ美術館蔵)や《待合室》(ピエール・ジアナダ財団蔵)などはおしゃれですらある。特に《雨》は、路面の光の反射や大気に滲む雨の描写がソール・ライターの写真のようで、ちょっと気の利いたギャラリーに置いてあっても遜色のない作品だった。

 同時代のハーグ派の画家で良かったのは、断トツでヤン・ヘンドリック・ウェイセンブルフ。 技術的にも抜きん出ていることに加え、ヤーコプ・ファン・ロイスダールのような空が魅力的だった(ロイスダール好きなので)。
 人付き合いが上手くいかないゴッホはマウフェとも衝突して仲違いしてしまうのだが(ゴッホ曰く、ゴッホの女性関係が原因)、ウェイセンブルフはそんな彼らの仲を取り持とうとしたり、二人が決裂しても私情を挟まずゴッホの絵を評価したりと、人格者然としていたらしい。立派である。
 
 ゴッホは決して人見知りなわけではない。むしろすぐに人と親しくなる才があるのだが、即座に関係を破綻させてしまうというクラッシャーでもあるのだ。
 会場でとあるカップルが「見て! また絶交してる! どういうことなんだろう……」とキャプションを見て神妙になっていたのでつい笑ってしまったが、いや本当に、会場に展示されている画家のほとんどと関係が決裂している。

 ゴッホはマウフェから「ものをよく観察しなさい」という教えを受けていた。それ以前にも彼はつぶさに何かを観察することが好きだったようだが、対象を観察しすぎるあまり、行き過ぎた感情移入をしていたり、自分と他人との境界が曖昧になっているような気がした。
 ちょっとした批判や指摘に対しても人格を全否定されたかのようなショックを受けてブチ切れていたようなので、まあ、そりゃ皆引いてしまうわな。とにかくすぐ癇癪を起こしたり、かと思えば異常に執着したりと「ほどほど」がなかったことが原因のように思える。

 特に顕著なのはアントン・ファン・ラッパルトとのエピソードだ。ラッパルトは裕福な家の生まれで、アムステルダム国立芸術アカデミーなどで学んでいる。この頃ゴッホは「貧しい人の暮らしにどれだけ肉薄できるか」みたいなことにチャレンジしており、友人であるラッパルトにも貧しい人を描くよう勧めていたらしい。
 ところがラッパルトはボンボンなので「貧しい人の貧しさ」がよく分からない。よって貧しさを強調せずに構図やポージング重視で描いたところをゴッホに批判され、喧嘩に発展してしまう……。なんともゴッホらしい決裂の仕方であるが、これも「ラッパルトは自分と同じように貧しい人を描くはずだ」という期待が災いしたように感じる。
 正直私がラッパルトだとしたら、ゴッホのこの怒りには辟易するだろう。「ちょwもっと貧しい感じ出そうよw」みたいな言い方だったらいいけど、「なんだこれは!」と怒りをぶつけられたらたまらない。

 ──とは言え、ゴッホの気持ちもわからんでもないのだ。

 この人とは気が合う、この人は素晴らしい人だ、だからきっとこう考えるはずだと期待した結果、相手が全く違う考えを示したとき、失望してしまったことがある人は多いのではないだろうか。がっかりして、時には怒りすら感じて、「信じていたのに」と思ったりする。かくいう私もたくさんある。
 でも、所詮は他人だ。全部が全部同じではない。そう分かっていてもがっかりするものはがっかりするし、悲しみや怒りが湧いたりする。けれど、もしその人と長く付き合いたいと思ったら、割り切る努力をしなければならないこともあるだろう(生理的に受け入れられないレベルの意見の相違はさておいて)。

 我々は日ごろ本やSNSやらでそういった「他人と意見が違うことは当然ある」という啓蒙を受けているから、自戒したり心構えをつけたりすることができる。しかしこの時代はそういったものがないため、日常的にそのような考えに触れることが難しかったのではないだろうか。
 宣教師を志したこともあったのに……と思わんでもないが、ゴッホは人の良いところをすぐに見つけ、尊敬し、慕うことが純粋にできた反面、その人が自分の理想を裏切ることを許容できなかった。
 とにかく感情がデカすぎるのだ。故にこの「重い愛情」は生涯変わることなく彼を苛み続け、多くの交流を生んでは破綻を繰り返すことになってしまう。

 こんな調子だから、次第に彼の周りからは人がいなくなっていく。
 仲良くなった人に入れ込んでしまうのは女性に対しても同様で、ゴッホは親しくなると恋に落ちやすいタイプだったように見える。即フラれる場合もあれば同棲までこぎつけるケースもあったようだが、どれも上手くいっていかなかった。とにかく人間関係の構築が、壊滅的に下手だった。
 付き合っていた彼女との結婚を双方の親に反対されて彼女が自殺未遂したり、それが原因で自分の父親と大揉めした挙句父親が亡くなってしまい、妹から「お前のせいだ!」と怒られる。せっかく描いた大作《ジャガイモを食べる人々》リトグラフ、ハーグ美術館蔵)を誰も褒めてくれないどころか、友人のラッパルト(前述のボンボン)からは「手の位置とかおかしくない?」などとけちょんけちょんに貶され、ゴッホも黙っちゃおれんと応戦して決裂。更にはゴッホのモデルを担ったていた女性が妊娠し、これはゴッホの所為では……? という噂が村中に広がり、「ゴッホのモデル禁止令」が敷かれたことによって彼は風景や静物を描かざるを得なくなってしまった──と、短期間によくもまあここまで人間関係をこじらせたな的なことがあって、なんかもう、なんかもう……なのである。

 会場ではこの頃の絵が展示されているのだけれど、これまたよくもまあこの環境で絵筆がとれたわねと思わずにはいられない。また、ゴッホには悪いが、彼の自信作《ジャガイモを食べる人々》よりも《鳥の巣のある静物(ハーグ美術館蔵)の方が断然良かった。
 ハーグ時代の絵は決して悪いものではない。ただ、特徴が無いのだ。ハーグ派というか、バルビゾン派というか、このまま先へ変化しなかったらきっとゴッホの名前は残らなかっただろうな、という絵ばかりである。入れ込みすぎが功を奏してか人物画には圧があるのだが、決定的ではない。うーんこのままでは厳しいぞ……と思ったところで彼はパリに渡る。
 そこで待っていたのが、印象派の画家たちとの出会いだった。

フランスでの時代

 弟・テオドルスがパリで画商をやっていたこともあり、ゴッホはテオを頼ってパリへ向かう。ところでファン・ゴッホの家は、父親もテオドルスという名前なので紛らわしい。ちなみに母はアンナといい、妹もアンナである。

  ゴッホとテオというと、情熱的で感情の起伏が激しい芸術家の兄を弟が経済的に支えた構図から、苦労はしたけれど兄弟は家族のきずなで結ばれていたと思われがちだが、結構テオはゴッホと言い争いになっているし、「あいつマジで出て行ってくんねえかな」と妹に愚痴っていた。ゴッホゴッホで、テオからの送金が遅延すると腹を立てたりしていたそうな。身内とはいえ図々しすぎる。

 さて、この地で出会うことになるポール・ゴーギャンとの事件は周知のとおりだが、本展ではそこだけに重きをおくのではなく、前章と同じく誰からどういった影響を受けたかを書簡の言葉なども引用して解説していた。
 ゴッホはとりわけアドルフ・モンティセリにご執心で、色を使うことの重要さにおいてはマウフェから得たものを礎に、モンティセリから多くを学んでいるようだった。ゴッホはああ見えて技法や知識を踏まえて描くタイプだったようで、決して感情の赴くままにやっているわけではないというのが、印象派の面々との出会いでより明らかになっていく。

 ここでは錚々たるメンツ──所謂誰もが名前くらいは知っている印象派の画家たちの絵が展示されていたのだが、なかでもクロード・モネ《ロクブリュヌから見たモンテカルロエスキス》ピエール=オーギュスト・ルノワール《ソレントの庭》がとてもとても、素晴らしく良かった。
 モネの作品は、淡い薔薇色の空と紫色の雲というまさに「夢かわいい」の王道を行く色彩、儚い白昼夢的な浮遊感があった。こういう色の空は一瞬で終わってしまうので、この瞬間を描き遺しておきたいと彼が願って筆をふるったなら、その気持ちはとても良くわかる。一方ルノワールは、どこかルノワールっぽくないけれど、よく見るととてもルノワールらしいという、なんとも不思議な印象を受ける絵だった。
 この2点を見ても、今まで空はどんよりした鼠色、木々も重々しく、花は楚々としている風景を描いてきたゴッホにとっては強烈なカルチャーショックだったろうと思う。色、こんなに使って良いんだ⁉ と思ったのではないだろうか。パリに来てからのゴッホの絵は、世界が違って見えるんですと言わんばかりに明るくなっている。

 さて、件の人間関係だが、パリではそれほど破綻を見せていないように思える(私の勉強不足なだけかもしれませんが)。テオとの諍いは度々あったようだけれど、カルチャーショックが凄すぎて他人に自分の理想を重ねてあれこれ考える暇などなく、新しく与えられる情報を処理することで精一杯だったのではないだろうか。彼は印象派だけでなく、浮世絵にも出会ってしまったし。

 アルルに行ってからはゴーギャンと一時的に暮らすが、あの「耳切り事件」を起こして精神病院に入院し、回復の兆しを見せるも最終的にサン=レミの療養院に入ることになる。
 展覧会はこのあたりをクレラー=ミュラー美術館の優品を中心に構成しており、とても見応えがあった。まさにエピローグへ向かうにふさわしい作品の数々からは、ああいうことがあっても、ゴッホの色彩が失われることがなかったということが分かる。
 ところでゴッホと言えば「自画像」だが、本展に出品されている《パイプと麦藁帽子の自画像》(ファン・ゴッホ美術館蔵)はさらさらとイラストのような線が軽やかで非常に魅力的だった。しかも目のふちに鮮やかで明るいピンクが引かれていたりと、何というかとても「今っぽい」。
 こういうのを観ると、本当に病院に入らなければならないほどの不調だったのかと思わずにはいられないが、それもそのはず、彼は始終調子が悪かったわけではなく、発作が起きると危険な状態になってしまうということで、それ以外は穏やかに画業に専念できていたらしい。つまり彼の情熱的な作品たちは、彼が鬱々としたり、半狂乱になった勢いのままに生み出されたものではないということだ。比較的冷静に落ち着いて描かれた絵が、あの画風なのである。
 もう一つ惹かれたのが《麦畑》(P.&N. デ・ブール財団蔵)。この絵が今回の個人的MVPだった。まさにプロヴァンスらしい、なんというかロクシタンのヴィジュアルに使われそうな、まばゆい黄金色の麦畑。空は控えめなグラデーションで彩られ、水色から紫への変化が美しい。

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《麦畑》(P.&N. デ・ブール財団蔵) こんな写真でお恥ずかしいですが……。

 展覧会最後の部屋では、サン=レミの療養院時代の絵を軸に紹介されている。
 もうこの頃はゴッホの周りには影響を与えてくれる画家はおらず、したがって彼は自分と向き合うしかなかった。
 自分を見つめ、自分を通して自然を観察し、絵を描いていく。
 ここで印象に残っているのはメインビジュアルの《糸杉》メトロポリタン美術館蔵)よりも《蔦の絡まる幹》(クレラー=ミュラー美術館蔵)で、そのあまりにも写実的な描写に驚いた。
 ゴッホの絵は決して精緻ではない。けれど木漏れ日やら土と木の根の境界やら、葉の様子やらがびっくりするほど自然に忠実で、「ああ、そういえばこの人は、自分と対象の境が分からなくなるほど観察する人だったな」と思い至った。描きたいもの、目に映るものをしっかり観察する。疲れ果て、命をも削ることになってしまうほどに。

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《糸杉》(メトロポリタン美術館蔵) それまで全く気にすることのなかった糸杉を、ゴッホはサン=レミの療養院に入ってから描いている。オベリスクのような造形と複雑な緑色に魅せられたとのこと。

──「そうだ、僕は絵に命をかけた。そのために半ば正気でなくなっている。それもいいだろう」

 ゴッホがテオにあてた手紙には、こう記してある。
 テオはゴッホが亡くなってからすぐに他界しているので、彼にとっては兄の振る舞いはいい迷惑だったように思う。そんな芝居がかった言葉でチャラにできるわけねえだろと思っていたかもしれない。だって、ゴッホの絵が評価される頃には、テオはこの世にいないのだ。「無心」という名の先行投資の恩恵を受けないまま、最終的に病気で亡くなる。
 ゴッホの生涯については、極端に情熱的・直情的だったがゆえに人と相いれなかったということが、ある種の美談のように語られることが多い。しかしハーグ時代の人々や家族は大変だったろうなあと本展を観て心底思う。そしてゴッホ自身、自分に振り回されることに疲れ果てていただろうなとしみじみ思った。
 生きづらかった人が生きづらいまま、いろんな人からいろんなものを吸収して、ボロボロになりながら絵を描いた。私はゴッホの絵がそれほど好きではないけれど、それでも時おりハッとするほど美しいなと思ってしまうのは、この人が観察することを大切にしていたからだと思う。私が彼の絵を観て清々しい気持ちになれるのは、彼の目を通じてつぶさに観察された美しいものが、丁寧に画面に納められているからだと思う。

「モネが風景画で成し遂げたことを、自分は人物画でなしとげたい」と願ったゴッホ。人物画も良いけれど、あなたの描く風景もモネとは違ったすばらしさがきちんとあるよと伝えたい。他の仕事は辞めていたけれど、あれだけ辛くても売れなくても最後まで絵を描き続けたということは、彼にとって”画家”はきっと天職だったのだと思う。
 もう彼はこの世にいないので、こうして自分の日記として書き残すことしかできないが、天職と巡り合えたことは、彼の厳しい人生の中で最高に幸せなことだったのではないだろうか。
 天職に転職したいなあと常々願っている私としては、そう思えてならない帰り道だったのでした。

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