コロナ禍になって、1年半ちょいが経とうとしている。
もともと変なところで潔癖なうえに、呼吸器と循環器を悪くした過去があることから、この1年半、それなりに高めの緊張感を途切れることなく持って生活してきた。
空がどんなに高くとも、風がどんなに暖かくとも、太陽がとても明るくとも、常にどんよりした膜に覆われているような、全体的に日々が灰色になったような、すっきりしない感覚が続いていたのだが──。
この日突然、陽が射した。
太陽の光は鮮烈で眩しく、思わずぐっと目を眇める。
これは、絵の中の話だ。
絵の中の太陽が、絵の中を照らしているだけ。
けれどその光は間違いなくこちらに届いており、私はその眩しさにたじろいだし、なんならそこに生じている暖かさも感じることができた。
そういう絵が、今、日本に来ている。
10月15日から三菱一号館美術館で始まった「イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜展」は、イスラエル博物館が誇る珠玉の印象派コレクションの中から、選りすぐりの69点で構成した贅沢な展覧会である。
なんとそのうちの59点が日本初公開だというから、おそらく日本に住むほとんどの人は、これらを初めて観るのではないだろうか。
来日している作家にはモネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど、誰もが知る巨匠が名を連ねている。
これだけでも十分話題性はあるのだが、そうじゃない、そういう「いかにも」な売りを抜きにしても、この展覧会は記憶に残る強さがあった。
レッサー・ユリィ
展覧会の見どころなどは公式サイトに詳しく載っているし、他の方もレポートされているので、私はいつも通り偏った感想を書こうと思う。
今回「ブロガー内覧会」という、写真撮影ができる鑑賞会に参加した。
よってこのエントリ内の写真は、許可を得て撮影したものなのだけれど、三菱一号館美術館は近年会場の一部、それも一番広い部屋を撮影可能エリアにしてくださっており、今回もそういうエリアが設けられている。やはり画像付きで会場を記録に残しておくと後々記憶の甦り度が違うので、ありがたいことです。
さて、SNSをやっている美術が好きな方は、最近やたらと「レッサー・ユリィ」という名前を見かけるのではないだろうか。
ポスターやキャッチコピーを見ると本展の目玉はモネの睡蓮だが、真打はレッサー・ユリィなんじゃないかと私は思っている。
なにしろ人の視線を捉える力が異様なのだ。モネの睡蓮を観ようと思って歩を進めると、いつの間にかユリィの絵に引き寄せられている。そういう感じ。
実際に本展を観た人の感想を読むと、多くの人がユリィの名前を挙げている。
印象派という括りになっているけれど、なんとなくナビ派のような、いやどこにも属さないような、不思議な絵をユリィは描く。
私は油絵の技法に関しては詳しくないので、単に知識が足りないからそう思うのかもしれないが、ユリィの絵は近寄って見ると、奇妙なところに奇妙な色を置いているように見えるのだ。殊にハイライトの部分は顕著であり、白をベースにしてその上にボルドーやら青やら紫やらが入れられている。
一見すると、突如現れたマルチボーダーのようなそれ。しかし不思議なことにある位置まで離れて見ると、その奇妙な色たちが白の中に絶妙に溶け込み、一瞬にして絵の中を照らす光に変化するのだ。これにはちょっと驚いた(これも一種の筆触分割? 視覚混合? になるのかしら?)。
また、ユリィは光だけでなく水の粒、いわゆる小雨や湿度の描写も見事である。
《雨のポツダム広場》の右上の方を見るとわかるが、雨の日のネオンが当たった夜空そのものであり、これに対して地面を見ると、こちらはネオンを反射した濡れた地面で、この「ネオンの光を受けた性質の異なる水」の描き分けがもう見事で見事で唸ってしまう。
他の人も言っていたけれど、レッサー・ユリィに出会えたことがこの展覧会の大きな収穫だったと言わざるを得ない。それくらいこの画家の引き寄せる力は段違いだった。
ウジェーヌ・ブーダン
さて、ユリィのインパクトが強すぎたため、ついこの展覧会を振り返ると彼の作品が一番に思い出されるのだが、冒頭で感じた目を眇めるほどの眩しい光を放っていたのはブーダンだ。
ブーダン、空の王者。そう呼ばれるだけあって、こういうスカッとするような絵が本当に上手い。
陽光だけでなく、潮風や陽の暖かさまで伝わってくる。
以前「コートールド美術館展」でブーダンの作品を見たときに、絵の中から風が吹いてくるような圧倒的な力を感じたことがあった。
力のある絵というものは、次元の壁を越えてこちら側にまで影響を及ぼす。たとえそれが物理的な影響力ではなかったとしても、鑑賞者は確実に画家の意図を受け取ることができる。
ちなみに「青い日記帳」のTakさんのツイートで知ったのだけれど、《港に近づくフリゲート艦》が描かれた1894年は三菱一号館が建てられた年であり、一号館解体後に一部保管されていた暖炉が、今回この絵の下に位置するものなのだそうです。
カミーユ・ピサロ
ブーダン同様、眩しさを感じたのがピサロの《エラニーの日没》だった。
日没と言っても完全なる日の入りより前の時間帯の光だろうが、辺り一面がハイライトで覆われ、木は強めの逆光となっている。おそらく鑑賞者の多くは、この光を見たことがあるだろう。日暮れ少し前の、淡い黄色のまばゆい光。
ピサロの筆は鑑賞者の記憶の中にあるこの光を呼び覚まし、行ったことのないエラニーという村のこの日没を見ているような気持ちにさせる。
印象派の技法に不満を抱いたピサロはスーラの点描に感銘を受け、その技法を採用したそうだが、この絵を観ると納得というか、これが表現したかったんだなあというのがよくわかる。
ところでピサロに限ったことではないが、会場に行かれる方は、ぜひ作品に近寄って絵肌を見てほしい(もちろん作品に影響がない範囲で)。
本展で使われているガラスはめちゃくちゃ透明度が高く、かなり近寄ってもガラスが嵌めてあることがわからないくらいなのである。反射が恐ろしく少ない。そんなわけで、せっかくだから筆の跡を追ってみてください。思わぬ色が使われていたり、勢いよく筆を走らせているように見えて実際はかなり複雑な計算をしている、なんてことがわかって面白い。
ポール・ゴーガン
さて、今回「お!」と思ったのが意外にもゴーガンで、──というのも私はそれほどゴーガンが好きなわけではないからなのだけれど、以前同館で開催されたフィリップス・コレクション展でブラックが出ていたときに「私の好きなブラックはここが全部持っていたのか」と思ったのと同じく、「私の好きなゴーガンはイスラエル博物館が持っていたのか~」となった。
それくらい今回出ているゴーガンは良い。
「お、ええやん!」と思ってキャプションを見るとゴーガンの名前が書いてある……ということが何度もあり、よくぞここまで佳きゴーガンが集まったもんだと驚いた。
そう、このイスラエル博物館。興味深いのが、ここに所蔵されている作品のほとんどが寄付によるものである、というところだ。
なんでも目利きがコンセプトを立てて蒐集する余裕はなく、とにかく物を集めることで精一杯だったらしい。場所柄、さもありなん……と思ってしまうのが複雑なところである。
それでも《死海文書》や今回来ているような優れた印象派コレクションを擁しているところを見ると、多くの人がこの博物館に愛着を持っているのが伝わってくる。
2018年に上野の森美術館で開催された「エッシャー展」、あれもイスラエル博物館の所蔵品で構成されていた。ということは、誰かがエッシャーを寄付したのだろう。
《メタモルフォーゼ》もそうなのかな、などと考えたり。
フィンセント・ファン・ゴッホ
展覧会を観た人のツイートなどを見ていると、ユリィと並んで人気があるのがモネの《睡蓮の池》とゴッホの《プロヴァンスの収穫期》で、特にこのゴッホの絵は、イスラエル博物館を語るうえで重要な作品として挙げらることが多いとのこと。
実はこのゴッホの絵もロスチャイルド家の旧蔵品であり、なんでも近代美術の作品が少ないからと寄付されたそう。先にも書いたけれど、このミュージアムはそういったある種の「応援団」からのエールで成り立っている。
だから良くも悪くもまとまりがないところもあるけれど、それも含めてひとつの貴重なミュージアムの姿だなという印象を受けた。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
忘れてはならないのがルノワールの《レストランゲの肖像》。
どう見ても「良い人」である。
これはルノワールの友人であるウジェーヌ=ピエール・レストランゲ氏を描いたもので、これを描く少し前まで印象派スタイルの作品があまり世間受けしなかったルノワールは、この時代によくある「富裕層の肖像画を描いて生計を立てるスタイル」でなんとかやっていた。
しかし本作を描いた年にサロンで成功を収め、一転して経済的にも安定すると、親しい友人の肖像を描くようになる。
従来のアカデミックな描き方を逸脱し、顔はしっかり描かれているのに背景は粗い筆致だとか、手に限っては形すら曖昧であったりと大胆だ。
けれど周囲の解像度がこのように低いせいかモデルの顔が際立つし、なによりモデルの表情が良すぎて、手がどうとかはあまり気にならない。
このレストランゲ氏、内務省の役人で近代美術と文学に関心を抱いていたという謂わば優良物件なのだが、彼の趣味はそれにとどまらず、なんとオカルト方面にも入れあげていたらしい。加えて催眠術師でありながらカバラを信奉していたというのだから、優良物件なんて小さい枠に納められない逸材である(ちなみにルノワールの結婚の際に証人の一人となってくれた人でもある)。
そんな最高のプロフィール且つこの顔で笑ってくれる友達なら、そりゃ肖像も描きたくなるよなあ……などと思いながら鑑賞。
ナビ派の面々
この絵の近くにピサロの《ジャンヌの肖像》があるのだが、ピサロの肖像画というレア度に加え、ジャンヌがとてもかわいい。ゴールデンカムイのアシリパさんを思わせる容貌で、色も軽妙であたたかく明るい。
本展は嬉しいことに、最後の部屋をナビ派中心のラインアップで締めてくださっており、これまた大好きなヴュイヤールが3点も並んでいるのだが、先に述べたピサロの肖像に通じる色の明るさがある。
この中の《窓辺の女》という作品はとても小さい絵ではあるのだが、視点の妙と言うか、ふと自分の部屋の窓から顔を出したら近所の人の暮らしが見えたときの、あの何とも言えない、でもどこか穏やかな気持ちが想起される名作だった。
そしてここにもレッサー・ユリィが1点あり、こちらはナビ派とは雰囲気がちがうものの、彼独特のハイライトの入れ方は健在だった。
椅子に入れられた一風変わった色の集まりが、ある一定の距離まで離れると「ふ」っとなじむ。なじんで、絵の中を照らす光に変わる。
この展覧会の強みは、「光の系譜」というタイトルを冠するだけあって、このように画家たちが描こうと思った光そのものを浴び、またはその風景や空間の中に佇んでいる感覚に陥ることができるという点にあるように思う。
冒頭にも書いたけれど、巨匠の初来日作品がたくさんあるという売りだけでなく、きちんと実力のある秀作が展示されている。
また、展覧会を担当されている三菱一号館美術館の安井さんはモネに関する著書を多く書かれているのだが、展示室のひとつにモネのスペシャルルームが作られていた。
イスラエル博物館の収蔵品ではない、別のモネ。連作として「睡蓮」を観ることを意識させてくれる粋な計らいだったが、このようにひとつの展覧会で得られる体験が、自分の鑑賞のスキルのようなものを少しずつ育ててくれているのだろうとしみじみ思った。
感染者数も落ち着いてきて、街にもそれ以外にも人の移動が増えた。
けれどまだ以前のように羽を伸ばして楽しむというよりは、警戒しつつ行動範囲を広げている人の方が多いのではないだろうか(少なくとも私はそうです)。
そんなどんよりとした靄に覆われているような感覚に、たまには陽の光を入れてみてほしい。
久しぶりに浴びた陽の光は、それはそれは良いものでした。