雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

鴻池朋子 「ちゅうがえり」を観た

 

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    鴻池朋子の「ちゅうがえり」を見に行った。正式名称は「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子 鴻池朋子 ちゅうがえり」。

 すごかった。
 すごかったし、精神が身体から離れてしまうんじゃないかと思うくらい怖かった。

  個人的には横浜での展覧会(「根源的暴力」)で感じた「扉」の先に、ついに足を踏み入れてしまったような感じがした。人によっては、この展覧会を観る前と観た後では、大きく核のような何かが変わるかもしれない。今までの自分ではいられないような。
 とにかく、そういうことを思わせる内容だった。

 

 

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 ブリヂストン美術館がアーティゾン美術館へとリニューアルしてから、行こう行こうと思っていたところに新型コロナウイルスがやってきて、第一弾の展覧会を逃してしまった。よって本展が私にとって「初・アーティゾン」になる。

 いつか自分で読み返すときのために書いておくが、2020年の展覧会は、そのほとんどが「事前予約制」である。予めチケットを購入することで、会場内の人数をコントロールするのだ。ただし、アーティゾン美術館はコロナ関係なく日時指定チケットを購入するしくみだったので、奇しくも通常運転となっていた。

 入り口で検温し、会場へ向かう。

 新しくなった美術館は、1階にカフェ、2階にミュージアムショップが設けられており、3階がレクチャールーム、4階から6階が展示室となる。鴻池朋子展は6階で、4階と5階は常設展示。2階のロッカーに荷物を預け、6階へと進む。

 スタッフのユニフォームも新調されており、不思議なシルエットがとても素敵だった。N.HOOLYWOODのものらしい。

 

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 エレベーターを降りるとこのように適度に開けた空間が出現する。
 椅子が美しくならんでおり、早く展示室に入りたい気持ちを制して写真に収めた。

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 さあ、いよいよ会場へ足を踏み入れる。
 本展は撮影OKということもあり、先達がSNSで発信した内容から会場の様子はなんとなく分かっていたのだが、写真では伝わらない異質な空気を本能が察知した。「展覧会の会場」という非日常が持つ空気という意味ではなく、「あの世でもなく、この世でもない」と言おうか、なんとも心許ない、それでいて濃密で確かなものが時折横をかすめるような、そういう空気で満たされていた。

 ひとつひとつ、展示を観る。
 ポスターにも使われている《皮トンビ》は、2019年の瀬戸内国際芸術祭で森の中に展示されていたらしい。

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《皮トンビ》

 こうして清潔な箱の中で対峙すると、野性味というか獰猛さは失われるが、逆に魔力のようなものが封印されているように見える。全体のフォルムは蛾のような姿をしているのに(トンビだけど蛾に見える)、つい近寄ってしまう。

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 ここまではよかった。
 事は制作ノートや、書籍のコーナーに立ってから一変する。

 以前、神奈川県民ホールギャラリーで見た鴻池さんの展覧会「根源的暴力」。あのとき、最初の部屋で開かれていた本と同じ内容のものが展示されていた。

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 忘れもしないこの文章。

 震災を経てから思い続けていたことが的確に綴られており、そのあまりの的確さに他の作品よりこの文章が一番記憶に残っていたくらいの代物だ。忘れるわけがない。

  自分の中で何かがざわりと渦巻いたが、それを押さえつけながら、もう一度、一行一行、しっかり読んだ。

 そこからすべてが一気に変わった。

 先ほどまで「時折横をかすめていた濃密で確固たるもの」が、身体にどんどん蓄積していくような感覚をおぼえる。メモや書籍に書かれた言葉が、しみこむように入ってくる。制作現場の写真を見れば、ここでは香るはずのない苦いような木々のにおいが伝わってきた。

 振り返った先の、小さな作品。
 展示室に入ってきたときは「鴻池さんらしい展示だなあ」としか思わなかったのに、そこにある光や夜や、命を見下ろすような心持ちになる。

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  ────怖いな。
 

 今私は、精神をむき出しにし過ぎている。こんなに無防備にしてしまったら、身体と精神をつないでいるものがぷつりと切れてしまうんじゃないだろうか? だってさっきから、あまりにもダイレクトに、身体の中にいろいろなものが入ってき過ぎている。

「危険だ」と思いながらも、鑑賞の歩みは止まらない。

 ふと、会場の中央へ出た。

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 円を描く、襖が並ぶ。

 そういえばかなり昔、どこかの倉庫のような場所で、鴻池さんの狼の襖を観たなあとぼんやり思い出しながら、一枚一枚眺めていく。

 鉱石が埋まった襖から始まり、胎内? 月を背負う大きな蝸牛、川、木、嵐、……と続いて再び鉱石へ戻る。理(ことわり)のような円環だ。
 最初の襖に埋められたきらきら光る石がとてもきれいで、もっと近くで見てみたいと寄ったところで、突然脳が高速回転した。

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「脳が高速回転した」なんていうのはもちろん比喩なんだけど、なんというか、あらゆる情報が高速で処理されていき、この世の真理にどんどん近づくような気がしたのだ。

 なんだろうこれは。怖い。そんなものを知ってしまったら、もうさっきまでの世界では生きられないんじゃないの? そう思ってもどんどん真理に近づいていく。怖い。でも気になる。 いいや、やっぱり危険だ。ああ、でもあと少しで────。

 

「あらあ、ありがとうございますぅ! すっごく助かりましたあ!」

 

 突然大きな声が響いた。
 あまりにも大きな声で、あまりにも突然だったために、一瞬わけがわからなかったが、どうやら会場の外(壁一枚隔てただけなので音は筒抜け)で誰かが誰かにお礼を述べているようだった。

  気づけば脳の高速回転は止まっており、先ほどまでの精神がむき出しになっている感覚も消えていた。

 さっきまでの、あれは一体何だったのだろう?

 自分の目で、目の前のものを見ているのに、まるで全く別のところから見ているような感覚。ヒョッと何かに引っ張られたら、それっきり肉体と切り離されてしまうような心許なさ。そして、とんでもないものを見てしまいそうな恐怖と、それを見てみたいと思う抗えない好奇心……。

 大きく息をつく。

 あの、自分なのに自分ではないような時間。もしかしたら私は、鴻池さんの作品を媒介にして、鴻池さんが見たり感じたりした「この世の理(ことわり)」の中にいたのではないだろうか。

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 表現するものやジャンルは違うけれど、同じ現代美術で例えるならばオラファー・エリアソン。彼の作品やドキュメンタリー映画を見ていると、「この世(この世界)のことをオラファーから翻訳の仕方を教わって、自分の目で見る」という感じがする。しかし鴻池作品の場合は「鴻池朋子という媒介を使って、いきなりこの世のことと自分のむき出しの精神が対峙する」とでも言おうか、なんともシャーマニズム的な言い方になってしまうけれど、先ほどの感覚は強いて言うならそれが一番近い気がした。

  あの時、突然会場に響いた誰かの声がなかったら、私の精神はどこかへ行ってしまっていたか、別の何かになっていたかもしれない。

 それからは地に足のついた状態で展示を観て回った。会場に漂う空気は相変わらず特殊ではあったものの、先ほどのような心許なさは消えていた。

 

 タイトルにあるとおり、アーティゾン美術館収蔵品がコラボレーションのかたちで3点展示されている。これらは鴻池さんが悩みに悩んで選べず、担当学芸の方が選んだとのことだったが、良いセレクトだった。

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右は ギュスターヴ・クールベ《雪の中を駆ける鹿》

 何年か前(2014年?)から続いている、布や糸を使って個人の物語を紡ぐプロジェクト「物語るテーブルランナー」も健在だった。ここではシスレーの絵画と《森へ行く女たち》とともに展示されていた。

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中央は アルフレッド・シスレー《森へ行く女たち》

「声と映像の部屋」は全プログラム約16分なので全て観た。
 中でも《ツキノワ川を登る》と《狼の遠吠えinラップランド》はとてもとても心地良かった。この2つのプログラムの音声は、上で書いた襖絵のゾーンでもうっすらと聴こえてくる。遠くからかすかに聴こえるユーカラのような歌声や遠吠えは、切ないような懐かしさを喚起した。《ツキノワ川を登る》は本展特設ページでも公開されているので、ネタバレ(?)が嫌でない方、今回は展示を観に行けそうにないという方はどうぞ。

 https://www.artizon.museum/exhibition_sp/jam_tomokokonoike/

 

 順路が特に決まっていないようだったので、この展示を最後に会場を出た。

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 これらは害獣として駆除された獣たちである。
 過去、初めて鴻池さんのこういった獣の毛皮を使った展示を観たときに、「この展覧会のために殺されたわけじゃないよね?」とぎょっとしたことがあった。解説を読んで「ああ、害獣駆除された獣の皮を引き取ったのか」と安心したのだが、同時に「安心した」という感情に違和感をおぼえた。

 害かどうかは我々の都合であって、獣が人間に殺されたという結果は同じである。けれど様々な理由から、「被害があるからやむを得ず駆除するのだ」と認識しているために、感情は「納得」というかたちですんなり処理される(処理されない人もいるのは知っている)。

「害獣駆除」という大義名分があるから、罪の意識を感じずに済んでいるということなのかしら? いたずらに命を奪ったわけではないからほっとした? などなど、その時はずっと考えていた。……のだが、繰り返し鴻池作品に触れるうちに、そもそも人間による殺生与奪云々は作品に全く関係なく、純粋にそれぞれがひとつの命であり、生きるための手段として相手の命を奪うかどうかを語っているのだと気づいた。

 害獣駆除も─これは様々な考えに分かれるトピックではあるが─、ある意味生きるための手段だ。我が家の近くに、ハクビシンが侵入したことで、まるまる一軒失ったという家族がいる。私の家にも出没した形跡があるので、いざとなったら私は駆除という決断をとるだろう。
 生きるため、住処を守るために、最後の手段として命を奪わねばならないことがある(大前提として、命を奪わずに住処を守る方法があるならそれが一番だし、心底それを望む)。

 野生だし、原始だな、と思う。
 でも、たぶん、そういう超シンプルな命のやり取りや、それが織りなす円環が、鴻池朋子の作品なのだと思う。違ったらごめんなさいだし、どうにもポエムみたいになってしまって言いたいことが上手く言えないのが歯痒いのだけれど。

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 円環はミクロからマクロへ拡張し、またミクロへ戻る。

 おそらく私が襖の前で近づきそうになった理(ことわり)は、そういうことなのだろう。もしかしたら鴻池さんは常日頃からそういうものをキャッチできているのかもしれない。私は感覚が鈍ってしまっているから、匙加減がわからず、うっかり無防備に精神をむき出しにしてしまい、あまりの引力に慄いてしまった。

 鴻池さんの作品に触れるたび、きっとこれからもこういう理(ことわり)を垣間見る機会があるだろう。次はもう少し足を踏ん張って、その深淵を少しでいいから覗いてみたい。 

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