最近はめっきりご無沙汰しているけれど、私は時折、不思議な体験をすることがある。
その時はとくに気づかなくても、あとになって「あれはオカルトな体験だったのでは?」と思うようなことが、振り返ると何度かあったりする。
そういったことを体験したところで、私は霊の存在を信じてはいない。けれど、自分が信じているかどうかはさておき、「それって幽霊だったんじゃないの?」と言われることはとても多い。
そういう話をする時、多くの人は眉をしかめつつも、どこかわくわくした顔をしている。
きっとみんな、そういう出来事が好きなんだと思う。
人は、科学では解明できない、少し不思議で怖いことが大好きなのだ。
心霊を芸術として考える
冨安由真さんの、「くりかえしみるゆめ」という個展に行った。
恥ずかしながら冨安さんのことは存じ上げず、よってたぶん自分にとって初めての「冨安芸術」はこの展覧会となる。
資生堂ギャラリーは、「shiseido art egg」という新進アーティストの活動を応援する公募展を設けており、入選すると、ギャラリーで個展を開くことができるらしい。
冨安さんは「第12回 shiseido art egg」に見事入選し、この個展を開催することになったのだ。(ほかに、佐藤浩一さん、宇多村英恵さんが入選している。)
冨安さんのことを検索してみると、ロンドン芸術大学で学部と修士を修められており、東京藝術大学の大学院で博士号を取得されている。
博論は「心霊表象論」。藝大のリポジトリを見たら要旨があった。
(前略)しかし近代以降に心霊が学問対象として嫌われてきたのと同時に、芸術、ことに美術に於いて、心霊は敬遠されてきたと言える。それは美術が西洋の文脈に於いてまた「学問」であるからだ。(しかし一方で、「ハイ・アート」では無い表現領域、即ち映画や小説、漫画などの大衆娯楽に於いては好まれてきたという事実は興味深い。)
私が本論文に於いて、心霊を扱った芸術表現の可能性を探ることを目的とするのには、心霊表現が芸術分野に於いてもっと扱われて良いという思いがあるからである。(後略)
(冨安由真 心霊表象論:心霊のイメージの変遷から読み解く「不気味な」表現の可能性[要旨]より)
要旨を読むと分かるのだけれど、今回の展覧会はまさにこの博論の内容を上手く作品に落とし込んでいると言える(まだ論文自体は読めていない)。
この展覧会を「アートと捉えるかどうか」と疑問視する声もある、と聞いたことがあるが、そもそも「アートと捉えるかどうか」ではなく、「アートとして捉えられてこなかった”心霊”というものを、アートとして扱う可能性」について実験しているように見えた。
(ところでヨーロッパの歴史の中で「心霊」が美術・芸術分野で取り上げられなかったということについて、ロマン主義や象徴主義から派生してオカルト方面に行くことはなかったのだろうか? 「死」に対して思うだけで止まってしまったのだろうか? 私が勉強不足なだけで、この辺りにはいろんな歴史がある気がする。少し気になる)。
くりかえしみるゆめ をみる
さて、実際の展示はどうだったかというと、私が訪れたのはこの展示がだいぶ騒がれてからだったので、平日であったにもかかわらず混雑していた。
とはいえ土・日のように1時間も並んだということはなく、すんなり入場できたし、部屋によっては誰もいない状況で鑑賞することもできた。
しかし欲を言うならば、始終ひとりで鑑賞したかった。これに尽きる。
もう会期も終了間近なのでネタバレ前提で書くけれど(そしてネタバレをしたところでそれほど影響はないと思うけれど)、「くりかえしみるゆめ」は既視感や気配、深層心理に語りかける内容になっている。
誰もいないはずなのに誰かに見られているような感覚、落ち着いた空間に漂う緊張感や不安、ゆるやかな恐怖などなど、静謐の中で味わうのがベストなもので作り上げられている。
よって、他の鑑賞者のおしゃべりや笑い声が聞こえてしまうと、どうしてもかつて存在した「2ちゃんねる」の廃墟に突撃するスレッドを読んでいるような気持ちになってしまうのだ。
たぶんたったひとりでこの空間に放り込まれたら確実に怖い。けれど、絶対にその方が何倍も美しい恐怖を体験できただろうなあ、と思ってしまう。
なので、これを自戒とする。
「展覧会は、なるべく始まってすぐに行くこと」。
で、内容。
資生堂ギャラリーはそこまで広い空間ではない。
しかし今回はとても広く感じられ、ここが資生堂ギャラリーだということを暫し忘れてしまうかのような錯覚に襲われた。
この展示はおそらく「誰か」の家を想定したものであり、「誰か」は見知らぬ誰かかもしれないし、もしかしたら自分が知らない自身の内面かもしれない。
「誰か」の家はいくつもの部屋で構成されていて、我々はひとつひとつの部屋の扉を順繰りに開けていく。
扉のノブを回すたびに、初めの部屋からうっすらと漂っていた「奇妙」な感覚は、ゆるやかに「不気味」な感覚へと姿を変える。
「今ならまだ引き返せる」と野性的な本能が警鐘を鳴らすのだけれど、悲しいかな人間は好奇心に身を滅ぼされる生き物なので、足を進めてしまう────という状況に陥っていくのだ。
ひとつ、またひとつ扉を開けていくごとに、この家の主人はオカルティズムに傾倒するあまり、引き返すべきところを見失い、結果的にあちらへ連れていかれてしまったのではないかというイメージが湧きはじめる。
そのうちに先ほど見た部屋とそっくりな部屋が現れるのだが、どうも細部が奇妙な様子に変化している。
そしてそれに気づいた瞬間、鑑賞者はすでに自分が「もう引き返せなくなっていること」をはっきりと知るのだ。
こういった目に見える不気味さに加え、会場の所々で起こる心霊現象(と一般的に呼ばれるもの)は、恐ろしくも美しい。この「美しい」と感じるものの正体は、しっかりと作り込まれた世界観そのものだろう。
我々が想起するクラシカルだったりゴシックだったりする西洋におけるオカルトのイメージが、会場には周到に用意されている。
周到だけれど、やりすぎでない作り込み。
これは冨安さんがロンドンで学部・修士と芸術を学んだことが、とても大きく影響しているのではないだろうか。
西洋のオカルトに対する「憧れ」ではなく、西洋のオカルトの「空気」とでも言おうか、完璧よりひとつ手前で終わらせているところが、逆に生々しさを感じさせる。
□
さて、いくつもの部屋を巡って、鑑賞者は最終的に大きな部屋へたどり着く。
そこには「かつて人がいた気配」が濃厚に漂っており、しかもその人はもう帰ってこないという予感も濃厚に漂っている。
そしてまた、「帰ってこないけれど、この部屋のどこかから私を見ている」という視線もはっきりと感じるのだから不思議だ。
この部屋にひとりで佇むことができたらどんなに良かったか。
そうなったら絶対に絶対にすごく怖いと思うし、夜、髪を洗っている最中にその感覚を思い出して落ち着かなくなったりするだろう。
けれど、その持ち帰った不気味さこそが、この展覧会の醍醐味であるような気がするのだ。
いつかどこかで似たような不気味さを味わった時に、「そういえばむかし、これと似たような感覚を体験したような……」と思い出す。その曖昧でありつつ拭えない既視感こそ「くりかえしみるゆめ」なのではないだろうか。
□
この大きな部屋を出て廊下を進むと、ふと小さな洗面所が目に入る。
実は何気なく入ってみたこの部屋こそが、本展で一番不気味だった。
ほかと違って、この部屋には仕掛けがない。
仕掛けはないのだけれど、顔を失ってなお微笑む肖像画と自分の顔が洗面台の鏡に並んだ瞬間、言いようもない嫌な予感に襲われた。
誰もいなかったし、この嫌な予感をどうにか形に収めたくて、鏡に映った自分と肖像画を写真に撮ってみた。
しかし、カメラロールを確認して、ぞっとした。
そこにはいつも通りの自分の顔と、目で観たままの肖像画があるだけだったけれど、本能的に「これは消した方が良い」と思わせる写真が保存されていたのだ。なぜかはわからないけれど、そう思わせる「空気」が写真に写り込んでいたのだと思う。
ものすごーく迷って、削除した。冨安さんによる油彩画は素敵だったし、折角不気味さを収めることができたのに勿体ないかなと逡巡したのだけれど、写真から滲む不気味な感覚に抗えなかった。
良いのだ。恐ろしかったと思う体験を持ち帰って、いつか曖昧な記憶の中で「あれは夢か現実か?」とぼんやりすることが醍醐味なのだ。
そして「不気味な写真が撮れてしまったけれど怖くて消した」という体験をしたことが、冒険のようでちょっと嬉しかった。
思わぬ体験をして次なる扉を開けると、一番はじめの部屋に戻った。
というか、一瞬この部屋が一番はじめの部屋かどうか分からなかった。
「見たことのある部屋だな」
そう思った。
そうなのだ。ここから私たちは、またくりかえし同じ夢を見ることになる。
この展覧会は、扉を開け続ければ続けるほど、夢から出ることができない仕組みになっている。
「この風景を、この感覚を私は知っている」
その既視感が、繰り返し繰り返し続くことになる。
この部屋には3つの扉がある。
どの扉を開けるかで、元の世界に戻れるかが決まる。
「くりかえしみるゆめ」は繰り返されるのだ。