雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

「ヴァロットンー黒と白」を体験した話

《〈アンティミテ〉板木破棄証明のための刷り》 1898年  木版

 

三菱一号館美術館で、「ヴァロットン─黒と白」が開催されている。
もう開幕してひと月以上経っているので、すでに訪れた人による感想もそれなりに上がっている。

かくいう私も、以前、美術展ナビにて展覧会紹介をいたしました。

artexhibition.jp

この時うっかり6,000字を越えてしまい、途中まで書いたところで「こらまずい」と思って〈アンティミテ〉というシリーズに絞ったレビューに変更した。なので、ここではそこに書ききれなかったことを書いていきたいと思います。

※写真は「ブロガー内覧会」というイベントにて、許可を得て撮影しています。

ヴァロットンの木版画に特化した展覧会

記事の中でも少し触れているが、三菱一号館美術館はこれまで折に触れてフェリックス・ヴァロットンという画家を扱っている。ある時はナビ派の中で、またある時はヴァロットンの油彩画を含めた回顧展の中で、彼の画業を、そして彼がどのような人物であったかを、我々に紹介した。

今回は、彼の木版画作品に特化した内容となっている。

時は19世紀末、ジャポニスムに湧くパリ。日本の浮世絵に度肝を抜かれ、色彩豊かなリトグラフを制作している画家が周囲にわんさといる中で、自身も浮世絵に影響を受けつつ敢えて黒一色の木版画で制作をし続けたヴァロットン。

別に彼は天邪鬼なわけではなく、ただ純粋に「黒一色の木版画が自分に合っている」と理解していただけなのだが、それでも当時の周辺画家たちの作品と比べると異色に映る。そして「異色だ」と気づいた途端、彼の黒に飲まれ、その虜になってしまうのだから厄介だ。

 

初期はこういった「いかにも」なカリカチュアも。左:《ピエール・ロティ(過去、現在あるいは未来の不滅の人々Ⅳ)》、右:《アルフォンス・ドーデ(過去、現在あるいは未来の不滅の人々Ⅲ)》、ともに1892年 リトグラフ

本展ではそんなヴァロットンの最初期の木版作品から(言うなればもっと前のエッチングリトグラフから)、木版を手放したその後までを時代ごとに丁寧に追う。ここで言う丁寧は、これでもかと稀少な作品を公開しているという意味での「丁寧」である(もちろん解説も丁寧です)。

なぜならこれらの希少な揃い物無しには、ヴァロットンの真髄は語ることができないからだ。

 

〈これが戦争だ!〉ポートフォリオ 1916年 厚紙による紙ばさみにタイトルの印字と赤インクの染み、布による縁取り/血を連想させるインクの飛沫は、ヴァロットン自身によるもの。6点の連作が揃っているのは世界的にも貴重。

〈アンティミテ〉ポートフォリオ  1898年  厚紙による紙ばさみ/〈アンティミテ〉はなんと限定30部! 展示されている版画を見ると、マージンの部分にエディションナンバーが確認できる。

エディション(番号)の入った版画というのは限定物で、ある一定の部数を摺ったらそれ以上は再版しないことになっている。100枚限定なら100枚だけ。それ以上はどんなに求められても、希少価値が失われるため摺られることはない。

当然版元はそれ以上の利益を見込めないから価格も上がるし、今集めようと思っても手に入れるのが困難なわけだが、驚くべきことに三菱一号館美術館にはヴァロットンによる限定の揃い物がいくつもある。よって、あちこちヴァロットン巡礼をしなくとも、彼の主要な作品は本展でほぼ網羅できてしまうのだ。これは素晴らしいことです。


今回見どころのひとつとして三菱一号館美術館が擁する、約180点からなるヴァロットンの木版画コレクションを一挙初公開」が挙げられているが、濃密にして充実、これがこの展覧会の最大の魅力ではないだろうか。

ナビ派の作品も並ぶ展示室

また、彼が一時期所属した「ナビ派」の画家たちや、ロートレックとの比較ができるのも良かった。ナビ派は平面的な色彩を重んじた集団であり、油彩におけるヴァロットンはナビ派らしい色を使っているのだけれど、扱うテーマがどうにも他のメンバーと比べて不穏なのが面白い。
ドニがほのぼのした一家だんらんを描いているのに比べ、ヴァロットンは事故現場だの過激な活動だの、葬式だの他者を罵倒する人だのを描いている(もちろんそれ以外のものも描いてはいるけれど……)。こういうものを見ると、他にいろいろ理由はあったとしても、根本的な部分でナビ派のメンバーとは感覚が違っていたのかなと思うし、最終的にそこから離れたのも頷ける(あとは他のメンバーがフランスの都市生活者だったことに対し、ヴァロットンはスイスから来た異邦人であったことも大きそう……。ヴュイヤールとは仲が良かったみたい)。

左:アンリ・ド・トゥールーズロートレック《夫人帽子屋ルネ・ヴェール》1893年 リトグラフ、右:フェリックス・ヴァロットン《緑色の帽子》1896年 リトグラフ

で、ロートレックとの比較においては、女性というモチーフへの視線の違いに笑ってしまった。
ロートレックと言えば魅惑的な雰囲気の中に哀愁をのぞかせる娼婦や、流行の服をまとった美しい婦人を描くことで知られているが、彼が「おしゃれな美人」「可愛い女の子」をメインに持ってきているのに対し、ヴァロットンは「そういう人が買い物をしているところと店員」を描いている──といった具合に、清々しいほどのロートレックらしさとヴァロットンらしさの比較が楽しめる。
これはひとえに三菱一号館美術館と姉妹館提携を結んでいるトゥールーズロートレック美術館(フランス、アルビ)の協力があったからだろう。ナビ派といい、ロートレックといい、意識して見比べることで、よりヴァロットンの個性を確認できる好機となっている。

 

貴重な版木も展示

エディションに関連した話になるが、日本の浮世絵とは異なり、こうした版画は版木が残っていることが稀である。日本の浮世絵も古いものは当然無いし、消失(または焼失)したり、他の版を彫るために今ある版が削り取られたりして残っていなかったりするのだけれど、北斎や広重など今尚求められるものは復刻されている。

《〈アンティミテ〉板木破棄証明のための刷り》 1898年  木版

しかし本展で展示されているもの、とりわけエディション付きのものは「もう摺りませんよ」という証明をするために、敢えて版木を破棄していた。そしてその証拠に、こういった物(上の画像)を「破棄証明」としてセットに付けている。

ちなみにこれは〈アンティミテ〉というシリーズの、それぞれの絵の版木の一部を組み合わせたものである。これだけ見たら、版木の破棄証明だなんて誰も思わないんじゃないだろうか。ヴァロットンはこういうところが本当に上手い。

閑話休題、そんなわけで版木が残っていることはめったにないヴァロットン作品だが、なんと本展では版木が1点展示されている。

《1月1日》のための版木 1896年 フェリックス・ヴァロットン財団、ローザンヌ

日本の版木のほとんどは桜材が使われているのだが、こちらはそれに比べて固そうに見える。本展担当学芸員の杉山菜穂子氏によると、おそらく梨の木ではないか、とのことだった。

ヴァロットンは自刻(自分で版木を彫る)だったため、その痕跡を見ることができる非常に貴重な資料だと思う。近くにその版木で摺った作品(《1月1日》)もあるので、観に行かれる方は、彫りと摺りの様子をぜひチェックされたし……。

《1月1日》1896年 木版

しつこいけどまた言う! 音声ガイドがすごい‼

さて、上で「最大の魅力だと思う」と言い切ってしまったけれど、もうひとつ付け加えるならば、やはり音声ガイド。これを抜きにはこの展覧会を語れないですよ。
私、Twitterでもしつこいくらい言っているので、「いい加減うるせーよ」と思っている方もおられると思うが言わせてほしい。

アプリの音声ガイド画面

音声ガイドがどうしても苦手という人以外、ぜひ音声ガイドを聴いてみてください……! すごいんだこれが。
過去に「ゴッホゴーギャン」という展覧会について、ブログを書いたことがある。私はこの時、初めて音声ガイドの力を知った。
音声ガイドは「流行りの人だからかな」と思わざるを得ない人選で、可もなく不可もないナレーションが展開されることがあるのだけれど、逆にぴったりはまれば、とんでもない怪物を生み出すこともある。作品・構成・会場・音声ガイドが絶妙なハーモニーを奏で、ひとつの名曲となる。これぞ展覧会の醍醐味だろう。

今回がまさにそれで、ゆえに私はこの展覧会をずっと忘れないだろうなと思う。あまりにもしつこく絶賛しまくったところ、その甲斐あってか音声ガイドを使ってくださった方が結構いらした。中には「これはもはや“体験”だった」という感想を聞かせてくださる方もいた。

そう、そうなの。体験なんですよ。ヴァロットン展という、ひとつの大きな体験になるのだ。

アプリの音声ガイド画面。こんな感じで作品の詳細も表示される。

オタクの人はシチュエーションCDみたいなもので慣れていると思うが、今回音響が素晴らしく、ガイドを担当する津田健次郎さんの語りが隣で聴こえたかと思ったら、少し先で聴こえるようになったりする。「ああ、津田さんがあの暖炉のところに行ったんだな」というのが、音だけで理解できる、そういう音響になっている。

しかも場所は三菱一号館美術館。あの19世紀を思わせる空間で、目の前にあるのは黒一色の皮肉とユーモア、不穏を湛えたヴァロットン作品。隣で語るは津田健次郎──どうですか、この世界観。合わないわけがない。

ガイドは自身のスマートフォンにアプリをダウンロードする形式で、料金は800円。会期中はどこでも何度でも再生することができます。
津田さんは藤田嗣治展でも良いナレーションをされていたが、イメージ的にはヴァロットン、ドンピシャだった。つーか上手い。本当に、どきどきするくらい上手い。津田さんをキャスティングされた方、ありがとうございます。あなたは天才だ。

チケットカウンターにある津田健次郎さんのサイン

ミュージアムグッズは一期一会 East至高のグッズたち

三菱一号館美術館の鑑賞後のお楽しみと言えば、「Store 1894」ミュージアムグッズだろう。株式会社Eastが手掛けるグッズは飛びぬけてセンスが良い。しかも普段使いしたくなるものばかりなので、あれもこれもと手が伸びる。

今回は、〈アンティミテ〉の手ぬぐい、活版印刷のようなポストカード各種、一筆箋を購入しました。

2020年に開催された「画家が見たこども展」では、ヴァロットンガチャがあり、中にはサコッシュが入っていた。私はこのサコッシュが大好きで、今も頻繁に使っている。

今回も出品されている《可愛い天使たち》の一部がプリントされたサコッシュ

スペアを持っておきたくてEastの代表である開さんに「今回もサコッシュは出ますか」と伺ったところ、今回は出ないんですよ、という言葉が返ってきた。

いや、前回人気だったから、ひょっとしたら今回も出るかなと期待していたんだけど、うーん残念……と肩を落としたのも束の間、開さんは「展覧会というものはその時限りのものであり、それはグッズも同様で、一期一会だと思っている。サコッシュが好評だったのは知っているけれど、あれは前回来てくれたお客さんへのプレゼントのようなもの。だから今回はまた別のものを用意しています」と話してくれた。

そうだ。確かに展覧会オリジナルグッズは一期一会だ。
そして実際に開幕して、ショップを覗いて、納得した。

手間をかけて何度も試作を重ねたであろうポストカード。
企画展史上世界初かもしれない、黒・白20種類のTシャツ。
選ぶのが大変なマグカップに、黒がピリっと効いた一筆箋。

他にもたくさん、どれもが今回だけのために作られたものだ。

Store 1894を動かす際にEastが掲げたテーマは「オーセンティック」だったという。フランス語で「本物」を意味するこの言葉のもとに、このショップでしかできないことが、10年間妥協を許さず丁寧に展開されてきた。私はそれまでのミュージアムショップの概念がここで覆されたし、きっと他にもそういう人はいると思う。

次にヴァロットンを扱う展覧会があったとして、当然これらのグッズは手に入らない。いつでも手に入るグッズももちろん大事だけど、展覧会ってそういうことなんだよな。なので、閉幕までにもう一度きちんと見に行こうと思っている。

こんな風につらつら書いていたら、またもや6,000字になってしまった。まだまだ書こうと思えばいくらでも書けるくらい、いろんなことを思う展覧会でした。

「ヴァロットン─黒と白」展は、2023年1月29日まで。
もはや説明不要とは思うけれど、三菱一号館美術館には「Café 1894」というものすごーく素敵なカフェがある。タイアップメニューはもちろん、今ならクリスマスディナーの予約もギリできそうなので、興味のある方は下記のサイトから見に行ってみてください。クリスマスディナー、毎年好評で瞬殺らしく、今年もクリスマスはすでに埋まっていたけれど、他の日はまだ狙える時間帯もありそう。

私は鑑賞後のタイアップメニューを狙って、展覧会に再訪しようと思っています。


【ヴァロットン─黒と白】

■会期:2022年10月29日(土)~2023年1月29日(日)
■会場:三菱一号館美術館
■時間:10:00~18:00、金曜日と会期最終週平日、第2水曜日は21:00まで
 ※入館はいずれも閉館の30分前まで
■料金:一般1,900円 高大生1,000円 中学生以下無料
■休館日:月曜日、12月31日、1月1日
(11月28日、12月26日、1月2日、1月9日、1月23日は開館)

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