雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

私的年度末に、渡良瀬遊水地へ行った

ひとつ年をとるので、その前の区切り(私的年度末)として、今の自分が気になっている場所へ行くことにした。
目下コロナ禍であり、高齢の家族と同居しているため、あまり遠出することはできない(とは言え毎日都内へ満員電車で通勤し、打ち合わせやったりなんだりしていることに比べたら遠出の方がリスクは少ないだろうけれど)。
そんなわけで、いくつか気になっている場所のうち、混まない電車に乗って行ける混まないところ──ということで、栃木県にある「渡良瀬遊水地」に白羽の矢が立った。

 渡良瀬遊水地とは、かなり端折って言うと、足尾銅山鉱毒を無害化するために作られた日本最大の遊水地である。現在は稀少な動植物が生息することから、2012年にラムサール条約登録湿地となった。
子どもの頃に読んだ田中正造の伝記がとても印象に残っており、ゆえに渡良瀬遊水地のことも「ああ、あの足尾銅山の……」と名前は知っていたのだが、人が散策できる自然豊かな場所だとはしらず、閉ざされたダムのようなところだと思っていた。
よって渡良瀬遊水地のホームページを見てめちゃくちゃ驚いた。

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渡良瀬遊水地 ホームページ

なんじゃこの北海道みたいな美しい場所は……⁉
行きたい。近いうちに絶対に行きたい。そう思ったまましばらく時間が過ぎてしまったのだが、このたび無事訪れることができた。

自宅最寄り駅から渡良瀬遊水地のある柳生駅までは、片道2時間弱でアクセスすることができる。駅から遊水地までは、まあまあ歩くようなので2時間半と考えると、そこそこ小旅行と言える距離だ。

渡良瀬遊水地の敷地はかなり広く、散策には自転車が適しているとのことで、近隣にはいくつかのレンタサイクルがネットワークを結んで営業をおこなっている。
つまりAで借りた自転車をBで返すことができるということだ。よきですね。

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渡良瀬遊水地のレンタサイクル営業所

 

というわけで柳生駅から歩いて10分ほどのところにある「道の駅 かぞわたらせ」にて自転車を借りようとしたところ、「今はやってないよ~。ごめんね~!」とあっさり言われてしまった。

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▲道の駅 かぞわたらせ  牛蒡のソフトクリームがある

お、おお……マジか。今めっちゃサイクリングシーズンだと思うんですが、やっぱアレですかね、コロナのヤツの仕業ですかね……。
いきなり出鼻を挫かれてしまったが、まあ、やっていないものはしゃーない。歩ける範囲で歩こうと渡良瀬遊水地へ向かった。

「道の駅 かぞわたらせ」の目の前の道路を渡って運動場のような原っぱを抜け、橋を渡ると渡良瀬遊水地だ。道の駅にも結構いたが、ロードバイクに乗った人が多い。遊水地内は整備されたアスファルトの道があり、歩行者もいるためスピードはあまり出せないものの、湖の周りを周回できるようになっている。

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▲道の駅から見た渡良瀬遊水地。目の前の広場を超えると遊水地エリアになる。やや歩く。

うーん、走りやすそうだし気持ち良さそう。気軽に輪行できたら家から自転車持ってきたかったなあ……などと思いながら歩く。

湖は水位が低く貯水池感は否めないが、それでも遠くに見える山々が美しいので雰囲気は良い。それに何といっても春の陽射しが心地良かった。
ただ、ホームページのフォトギャラリーで見た景色がどこなのかわからない。
もしかしたら増水して水位が上がらないとあそこまで幻想的にはならないのかもしれない……などと少し残念に思った。

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▲谷中湖(北ブロック)

その時である。適当に歩いていた私の前を自転車に乗った一組の家族が通り過ぎようとした。
何かがおかしい。なんだろうこの違和感は?
そこでハッと気づく。全員同じ車種に乗っているのだ……!
次の瞬間、頭で考えるより先に行動をおこしていた。
「すみません! それ、レンタサイクルですか⁉」

普段はぼんやりしている私だが、こういう時の勘はそこそこ当たる。はたしてその自転車はレンタルしたものであり、遊水地内のレンタサイクルは営業していて、そこで借りたということだった。
有難いことにその家族は私のとっさの質問にも丁寧に対応して下さり、方角だけでなく、なんと地図を広げてレンタサイクルの場所まで教えてくれた。
良かった。これで縦横無尽に遊水地を探索できる。

かくして無事、自転車にありつくことができた。今回利用したのは「谷中湖子供広場レンタサイクルセンター」で、料金は2時間300円、4時間400円、1日だと600円。とりあえず2時間分の料金を借りる際に支払い、延長となった場合は返却時にその分を支払うということだった(料金は全営業所共通)。

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▲ギアがついて快適だが、私が借りた個体は鍵が壊れていたので、借りる前に確認した方が良いです。

自転車を入手したら安心してお腹が空いたのでお昼にする。
今の時期はまだ虫も少なく、草原でおにぎりを食べていても虫に絡まれることがほとんどない。それどころかウグイスの鳴き声を聞きながら昼食をとることができ、目の前には愛らしい野草、すばらしい時間だった。

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腹もくちくなったところで自転車を走らせていると、進行方向に煙が立ち昇っているのが見えた。

「ヨシ焼きかな?」
そんなことを考える。
ヨシ焼きとは、渡良瀬遊水地の春の風物詩とも言われるほど有名な、湿地の環境保全や病害虫駆除を目的とした野焼きである。
毎年多くの見学者が訪れるため、今年は密を懸念してヨシ焼きを行わないとのことだったけれど、保全のためにアナウンス無しでやっているのだろうか? 見られるならラッキーだなあ、などと思って煙の方へ向かって走った。

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▲場所的に言うと東谷中橋を渡ったあたり

しかし近づいてみるとどうも雰囲気がおかしい。
周囲にヨシ焼きを取り仕切っている係りの人らしきがいない。火は見当たらないし、煙も中途半端にしか上がっていない。けれどヨシ原は少し焼けており、それを数人が遠巻きに反対側から眺めているだけだった。
──もしかして本当の火事?

ヨシ原は人が立ち入って何かするような場所ではないし、バーベキューエリアもここではない。だとすると自然発火なのだろうか? そんなことを思うも、もし本当に火事なら通報されているだろうし、ぱっと見たところ火が見当たらないからもう鎮火したのかもしれない。どちらにせよ自分ができることは無いわけで、それなら散策を続けようとそのまま自転車を走らせることにした。

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菜の花と背の高いヨシに囲まれた、遠くに山が見える美しい道があったのでそこを走る。青い空が大きくひらけ、色の取り合わせがもうどうしようもなく美しい。
誰もいないのでマスクを取ると、ひんやりした新鮮な空気に混じってやはり煙の臭いがする。ふと見ると、上着に煤がたくさんついていた。振り返れば先ほどよりもやや黒い煙が立ち昇っている。
あら、まだ鎮火はしていなかったのか。ぼんやりと煙を見ていたら、遠くでサイレンの音が聞こえた。サイレンは徐々に大きくなり、消防車がこちらへ向かっていることがわかる。

もしヨシ焼きのような計画的なものであればサイレンは鳴らさないだろうし、なんなら初めからもしものことを考えて待機しているはずだ。だとするとやはり火事なのかもしれないが、先ほど見た限りではそこまで大きな被害になりそうになかったから、大丈夫だろう。きっとすぐ火は消し止められる。

……という予想は、すぐに打ち砕かれた。
先ほど振り返ってからほんの数分後、再び振り返るとシャレにならない煙があがっていたのだ。

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釣り道具を持った地元の人らしきおじいさんが「今日はだめだ」と言いながら川辺から上がってきた。私を見て観光客だと思ったのか、あれがどういう状態なのか早口で説明してくれたが、あまりの早口と方言とでほとんど聞き取れない。けれど、良くない状況であるということは伝わった。

もう今日は帰った方が良いのだろうかと思いつつ、来た道は煙で真っ黒になっているので戻れないし、消火活動をしているならその邪魔をしたくない。遊水地の外周を走ることにして、とりあえずレンタサイクル営業所を目指した。
サイレンの音を聞きつつ、空からは煤が降ってくるという非常事態であったが、遊水地の景色はものすごく美しかった。

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残念ながらホームページに掲載されていた風景は見つけられなかったが、それを差し引いても満足できるほど好みの風景だった。
こういう人を寄せつけないような、凛として少し素っ気ない風景が大好きなのだ。

しばらく走ってからレンタサイクル営業所へ戻ると、他の客はまだ自転車に乗っているようだった。遊水地内も特に閉鎖のお知らせや全体的な避難指示など出ておらず、ある意味通常営業である。

それならまだ散策していていいのかなと解釈し、谷中村史跡保全ゾーンに入った。谷中村とは、足尾銅山鉱毒事件により強制廃村になった村である。
ヨシで囲まれたここは、乾燥したような風景から一見メルボルンの郊外に似ているのだが、よく見ると、ところどころに村人の住居跡がある。

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▲この頃にはあちこちに火の手が上がってしまっており、どの方角で撮っても煙が入った
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谷中村はもともと肥沃な土地であったが洪水の被害を受けやすく、そういったこともあって川が氾濫すると鉱毒の汚染に悩まされていた。自分の慣れ親しんだ土地が汚染されて強制退去を命じられることについて思いを巡らせるとともに、今こうして景色を見渡して美しいなと感じることのギャップにしばし立ち尽くしてしまう。

そうこうしていると前から遊水地の管理をしている人の車がやってきた。道が細いので自転車を脇に避けようとしたら、「ここも燃える可能性があるから、退避した方が良さそうです。火が着いたら一瞬ですから」とのこと。
確かに相変わらず煤は降ってくるけれど、ここも⁉ けれど煤に火の粉がついてたら地続きじゃなくても火は燃え移るよな……ということで、もと来た道へUターンする。
仕方ない、今日はもうお開きにしましょう。また改めて秋にでも来ましょう。

最後に谷中橋の方を見に行ったら、先ほどとは一変して焼け野原になっていた。
それだけではなく、ほんの1時間ほど前に走った菜の花とヨシの美しかった道が跡形もなくなっていてぞっとする。

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▲まだところどころ鎮火しておらず、消火活動は続いていた

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▲菜の花とヨシの道があった場所

近くにいたおじさんが、「停めてあった車も燃えた」と話しているのが聞こえた。そうなのだ、この一帯は先ほどずらりと車が停めてあった。ここに車を停めて釣りやバーベキューや散策に出たのだろう。火の手が大きく上がって騒ぎになり、急いで駆け戻ったころには火に飲まれてしまっていた。きっと、そういうことなのだろう。

地震も怖いけれど、火事も怖いなと心底思った。
地元の人たちの話に耳を傾けていると、どうせこの季節はヨシ焼きをやるんだから同じことだと言っている人や、この前も火事があったし火が起こりやすいのだと言っている人がいた。計画的に行う野焼きと事故では手間も段取りも危機感も違うだろうが、私はよそ者なので、放火でないならばこれをどう受け止めていいかわからない。
ただ、消火活動にあたる方や遊水池に来た方に怪我がないようにとか、虫や鳥は大丈夫だろうかなどと案じることしかできない。

予想外の出来事が起きた渡良瀬遊水地初訪問だったが、風景は好みだったし今回行けなかったエリアもあるのでぜひ再訪したい。
そして次回、もしレンタサイクルが各所営業再開となったら、柳生駅ではなく板倉東洋大前駅で降り、「わたらせ自然館」に併設されたレンタサイクルを利用しようと思う。
駅から近いし、ここから乗っていけるなら相当楽だ(渡良瀬遊水地へはいずれの駅からも40~50分歩かなければならない)。

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▲わたらせ自然館

何もないけれど、何もないのが好きな人にはうってつけの場所だと思う。
ウグイスが家の近所に来なくなってしまってから鳴き声を聞く機会がへったけれど、ここではあちこちから聞こえて楽しかった。

いつ死ぬかわからないから、行きたい場所にはなるべく行っておこう。
次の年の1年も、なるべくそうやって過ごしたいと思った私の年度末なのでした。

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