雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

ジョセフ・クーデルカ展いってきた

東京国立近代美術館

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クーデルカ展が行われるというから、過去に写美でやったような<プラハ侵攻>メインなのかなと思ったら、初期の雑誌の表紙を担当していた頃のものから最新作までという半生を追うラインナップ。 どうしてもプラハが有名だからクーデルカと聞くとあの写真のイメージになってしまっているし、何かで紹介されるときも、だいたい出てくるのはプラハの写真。しかし初期のクーデルカのスタイルは全く違ったものでした。

初期というか、全体を通してその都度かなり印象が違います。写真を観ることに重きを置くのではなく、作家の半生、そしてその精神状態を通じて写真を観ることができたのが収穫でした。 いやー、クーデルカ、撮影した時期の精神状態で全然作品違うんだものー。活き活きしているときと、ぼっちのときでは雰囲気が全く違う。

 

会場は6つに分かれて構成されておりました。

1.初期作品 → 2.実験 → 3.劇場 → 4.ジプシーズ → 5.侵攻 → 6.エグザイルズ → 7.カオス

クーデルカはもともと航空技師として働いていた人で、古いカメラを貰ったかなにかして、それから写真を撮り始めたので最初から写真一本でやっていた人というわけではないのだけれども、とにかくセンスが良いし、画面構成がかっこいい。天地の比率をセオリー度外視で展開したり、被写界深度を巧妙に操ることで後ろにくる人物がまるで人形のように見えたりで(この撮り方は度々出てくる)、実験的且つ芸術的ともいえる作風はプラハのイメージが強かった自分には衝撃でした。

[caption id="attachment_860" align="aligncenter" width="500"]<初期作品>より <初期作品>より[/caption]

で、この姿勢をさらに突き詰めたのが二番目の「実験」。これはクーデルカが依頼されて担当した雑誌の表紙シリーズです。 ハイコントラストで焼いてあるものが多く、人物の顔を撮影したものなど、もはや絵画。つづく「劇場」シリーズから、クーデルカの”写真家”としての知名度チェコ内で上がっていきます。劇場シリーズはその名の通り劇場の中で行われる演目のスチールなのだけれど、どちらかというと無機質な「実験」からは感じられなかった人間の生々しい生きざまのようなものが伝わってきます。 そして今回の展覧会でかなりの割合を占める「ジプシーズ」へ。

「劇場」ではあくまで”お芝居”として描かれてきた人生が、「ジプシーズ」では現実として作家の前に現れます。ジプシーという人々を際立たせるためかドラマチックな構成が色濃いものもあったけれど、実験の時に感じたようなかっこいいプリントを作りたいという気持ちよりも、被写体に真摯に向き合って、自分が感じたものをどれだけ1枚に集約できるかを追っている気がしました。

[caption id="attachment_861" align="aligncenter" width="944"]<ジプシーズ> <ジプシーズ>より[/caption]

でも、(偉そうなことを言わせていただくと)なんとなく・・・もう一歩踏み込めるんじゃないかなっ…?っていうのもちょっとあったり…。 というのも、その後に来る「侵攻」が思いっきり踏み込んで撮影しているから。「侵攻」クーデルカの代表作品ともいえる”プラハ”シリーズで、プラハというのはあの”プラハの春”の革命のことであり、1968年8月の侵攻時における最初の7日間にプラハ中心地で撮影されたもの。 変な言い方かもしれないけれど、このシリーズから一気に画面が洗練されます。視線を集めたい箇所、背景、神経をガリガリと攻撃する緊張感。これらを反射的に納めることに成功している。カメラを機材ではなく自分の身体として使っている。 そして何より対象との距離がものすごく近い。物理的な距離ではなく、存在が対象の渦の中に入り込んでいる。「ジプシーズ」で時折感じたのは、「密着して撮影してはいるけれど、そこにうっすらと感じる薄い壁」の存在。でも、「侵攻」にはその壁を感じませんでした。 クーデルカが自分のナショナリティから撮影せざるを得なかったからなのか、それとも経験が花開いたのかはわかりませんが、紛れもなくマグナムに所属するフォトグラファーの視線と反射能力を手に入れているな、という印象を受けました。(マグナム好みの写真とも言う・・・)

[caption id="attachment_859" align="aligncenter" width="640"]<侵攻>より この構図は気に入っているのか、エグザイルズでも使われていた <侵攻>より
この構図は気に入っているのか、エグザイルズでも使われていた[/caption]

 

 

この一連の写真は秘密裏にアメリカに渡り、匿名の作家の作品として大いに話題を呼びます。(1969年にロバート・キャパ ゴールドメダル賞を受賞。)まあもちろんマグナムが放っておくなんてことはなく・・・当時会長だったエリオット・アーウィットクーデルカをスカウトしていました。 で、ブレッソンブラッサイたちと交流があったりなんかして微笑ましい♡ とはいえこの時点ではプラハの写真を撮影したのがクーデルカだとバレたら自身はおろか家族の命にもかかわるわけで、彼はイギリスへ亡命します。その頃撮影したのが次の「エグザイルズ」

[caption id="attachment_864" align="aligncenter" width="400"]<エグザイルズより> ぼっちの時ってこういう写真撮ってしまうのよね… <エグザイルズ>より
ぼっちの時ってこういう写真撮ってしまうのよね…[/caption]

もうね…この見事なまでのぼっち感はすごい!!誰も友達いない+帰れないという孤独オーラがすごい。今までは自信や信念みたいなものが見え隠れしていたんだけど、ここにはそれは無かったな…。街で見かけたちょっとおもしろい風景的なスナップも撮ってるんだけど、やっぱ暗い…(´・_・`) 「侵攻」で手に入れた能力を持ちつつも思い切り発揮することができず、まるで牙や爪をしまいこんでいる虎のようです。 この人は精神状態がめっちゃ写真に出るんだな~という発見があって面白かったけど、本人は辛かったろうね。。。

そして近年の作品「カオス」へ。 文明とか、文明が退廃した様子とか、文明の犠牲になったものをメインに撮影したシリーズです。先日書いたダレン・アーモンドにもこういったテーマを盛り込んだ作品がありましたが、打ち捨てられた土地というものに対して強く静かな感情をこめて向き合っています。 私はこのシリーズかなり好きなんですけども、その大きな理由がパノラマの使い方。 「カオス」は全部パノラマ撮影なのです。で、長いわでかいわってことで引きで観ることになります。今までの写真はちょっと引けば全体が視界に収まりますが「カオス」は仮に視界に収めることができても視点が彷徨う大きさ。そこで居心地の悪さを生まないように、画の中は集中線の世界になっています。一か所に点があり、そこを起点にするなりゴールにするなりして視線がうまく全体に誘導されるように構成されているのは流石。 また、レバノンギリシャの遺跡をトリプティクのような構図でまとめたものや迫力のあるテトラポットなど、今まではずっと人に焦点を当ててきたクーデルカが物や土地に対してどう見ているのかを知ることができます。 中でもフォロ・ロマーノを撮影したものは、ほんとすごかった。「こんな風に撮れるもんなのか」というのと「こういう気持ちでものを見てるんだ」というのでくらくらしました。 ここまで観て、もう一度「初期作品」から観ると、この人の写真とともにある人生がものすごい重さで伝わってきました。今後はどう展開するのか、まだまだ元気なおちゃめなおじさんだというからとても楽しみです。

[caption id="attachment_862" align="aligncenter" width="953"]<カオス>より <カオス>より[/caption]

 

さて、「侵攻」は今でこそクーデルカの名前で写真集が出ていますが、家族に危害が降りかかることを恐れたクーデルカは、両親の死後に自分がこれを撮影したのだと公表します。 写真集には下記のような言葉が添えられています。 「これらの写真を一度として観ることのなかった両親に捧げる」

「これらの写真を一度として観ることのなかった両親に捧げる」

 

一方、彼の父親は、彼が14歳で学業のために故郷の村を離れる際にこのような言葉を贈りました。 「行ってこい。そしておまえが何者であるか見せてこい。世界はおまえのものだ」

 

今まさに、私たちは彼が何者であるかを知り、彼が捕まえた世界の瞬間を目にするのです。