雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

ホドラー展行ってきた

国立西洋美術館

展覧会が告知された頃は「ホドラー……? って誰??」というくらい何も知りませんでしたが、某レストランに飾られていた展覧会ポスター≪ミューレンから見たユングフラウ山≫の山肌と目が覚めるような空の青に鮮烈な印象を受け、また、詩人 ゲルリット・エンゲルゲをして「われらの時代の絵画のうち、ホドラーのそれだけが時間の裁きに耐えるだろう。この男は体内にリズムを持っている!」と言わしめ、カンディンスキーによる賞賛、チューリヒ展での評判も良かったことから、はたしてホドラーとは何者なのか、彼のリズムとは一体何なのか、俄然興味がわいてきました。 ホドラー

さてホドラー、人生の前半はかなりハードモードだったようです。 1853年にスイスはベルンにある貧しい家具職人の家に生まれました。6人兄弟の長男。7年後父親が他界、母親は装飾画家と再婚し、ホドラーは小学校に通いながら義父を手伝います。しかし更に7年後母も他界。母方の親戚の家に引き取られ、ホドラーはフェルディナント・ゾンマーに弟子入りして絵画を学びます。が、厳しかったのか3年で逃亡。なんと徒歩で(無一文のため)ジュネーブへ。その距離なんと約200キロ。車で2時間半だって……。で、ここからは人脈に恵まれ、ラッキーな感じに。ジュネーブの美術館で模写していたところを美術学校で教鞭をとっていたバルトロメ・メンに見出され学校へ入学。めきめき上達してスペインにも渡ったりして、地中海特有のコントラストの強い色彩や「光」に関していろいろ考え始めるのですが……という感じの流れが展覧会の第1章「光の方へ」で語られています。

正直ホドラーの風景画は初期の方が断然好み。中には欧州のお土産屋で売っているような「ザ・油彩」という絵もありますが、≪インターラーケンの朝≫あたりは淡い色合いと木の陰が心地よい絵です。

[caption id="attachment_1138" align="aligncenter" width="640"]≪インターラーケンの朝≫ ≪インターラーケンの朝≫[/caption]

スペインに渡ってからは「光」に対する意識の変革が訪れ、柔らかい絵というより硬い絵に変わっていっています。上手いし、写実的ではありますが、個人的にはこのコントラスト高めの絵よりはスイス時代の絵の方が好き……

第2章「暗鬱な世紀末?」で生や死について少しずつ触れはじめます。そして先日書いたホイッスラー然り、ここでもクールベ先生の影響力が発動されていたようで、ホドラーもまた身近にいる労働階級の人々を描くようになります。この頃(1891年)パリにてサロンデビューをはたし、そこから比較的トントン拍子で進むホドラー。その間に未婚だけど息子ができたり結婚したり離婚したり再婚したり愛人ができたり、兄弟が次々に結核で亡くなっていったりと、「生」と「死」が常に彼の根底に住みつくようになりました。

[caption id="attachment_1144" align="aligncenter" width="281"]≪読書する老人≫ ≪読書する老人≫[/caption]

第3章「リズムの絵画へ」。この時期からこの先の指針が決まったといっても良いでしょう。 ”オイリュトミー”というテーマのもと、ホドラーは様々なリズムを意識した作品を作り上げます。”オイリュトミー”とはギリシャ語で”良きリズム”。ルドルフ・シュタイナーによって新しく創造された運動を主体とする芸術でもあります。ホドラーは、「死」があるからこそ「生」が躍動するという一種のメメント・モリをリズムと解釈し、それを平面の世界に表現することを自身の作品の主題としました。そこには音楽家の友人エミール=ジャック・ダルクローズの影響もあり、互いに切磋琢磨しあってホドラーは絵画にて、エミールは音楽にてそれぞれ”オイリュトミー”を模索し始めます。 ホドラーは1枚の作品のみではなく、対となる作品を作ってリズムを表現することもありました。それが≪オイリュトミー≫と≪感情Ⅲ≫。死へ向かう者、生の躍動を謳歌する者、それぞれの感情を身体全体で表現する様子はさながら舞踏のようです。

[caption id="attachment_1139" align="aligncenter" width="414"]≪オイリュトミー≫ ≪オイリュトミー≫[/caption]

[caption id="attachment_1140" align="aligncenter" width="435"]≪感情Ⅲ≫ ≪感情Ⅲ≫[/caption]

「自然の形態リズムが感情のリズムと協働すること、交響すること、私はそれをオイリュトミーと呼ぶのだ!」(ホドラー

正直なところ……「ホドラー良いな!」と思ったのは3章までかもしれません……。もちろん技術と名声を得てから再びスイスの風景を描いた第4章「変幻するアルプス」は「リズム」を取り入れた斬新なものになっていたし、冒頭で述べたポスターになっている≪ミューレンから見たユングフラウ山≫も良いと言えば良いんだけど、なんというか勢いがちょっと削がれてしまっている感もあるのです。落ち着いちゃったというか。≪シェーブルから見たレマン湖≫とか、可愛いんだけどさ。

[caption id="attachment_1145" align="aligncenter" width="576"]≪シェーブルから見たレマン湖≫ ≪シェーブルから見たレマン湖≫[/caption]

 

第5章「リズムの空間化」から終章「終りのとき」へ向けて、比較的大きな公の仕事が取り上げられ、博物館や美術館の壁画制作に焦点が当てられています。この時期ホドラーは結婚していましたが、モデルを務めたヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルと愛人関係にあり、ヴァランティーヌが病に侵されてから没するまでのプライベートの作品は、ほぼ彼女と自身のポートレートになりました。ホドラー、写真で見ると気のいいおじいちゃん然とした風貌ですが、なかなかどうして隅に置けない人だったようです。 しかし、こうも周囲で深い親愛を向けている人々が次々に亡くなっていくのを体験するのはどんな気持ちなのだろう。それを内包して作品にするというのは、ときに血のにじむような作業だったのではないかと思うのです。だからこそ、その感情をオイリュトミーとして昇華せざるを得なかったのかもしれません。

晩年ホドラーチューリヒ美術館にある階段間のための壁画を制作します。 それぞれポーズの異なる女性5人が描かれているこの作品に対し、ホドラーは次のように語っています。

「ある同じ感情が満たされた異なる人間の身体は、ただひとつの想念をつたえるモニュメンタルな合奏を形成する」

 

没年に制作された≪白鳥のいるレマン湖モンブラン≫。このときホドラー自身もすでに病に冒され、身体の自由がきかない状態でした。その中で描かれた6羽の白鳥たちが奏でるリズムもまた、おそらくひとつの想念を伝えるためのホドラーの思いが映し出されたものなのでしょう。 生きること、死ぬこと、感情を伝えること、全て日常に溢れているものですが、そこにリズムを見出したホドラーは、やはりエンゲルゲの言うとおり対内にリズムを持っていたのだと思えてなりません。

[caption id="attachment_1146" align="aligncenter" width="640"]≪白鳥のいるレマン湖とモンブラン≫ ≪白鳥のいるレマン湖モンブラン≫[/caption]