雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

岡崎京子展 行ってきた

世田谷文学館

あたしはね ”ザマアミロ”って思った 世の中みんなキレイぶって ステキぶって 楽しぶってるけど ざけんじゃねえよって

  というのは、『リバーズ・エッジ』に出てくる吉川こずえというモデルの女の子(ヘルタースケルターにも出てくる)が、川辺に捨てられていた白骨化した死体を見たときの感想。リバーズ・エッジを初めて読んだときに、「ああ自分がたまに感じる、一気にすべてが馬鹿らしいと冷める気持ちは、もしかしたらこういうことなのかもしれない」と思ったのをなんとなく覚えている。 どんなにアナーキーなこと言っても、どんなにスノビズムきめても、どんなに不良ぶっても、どこかでそれに酔っているというか、「誰かに見てもらって評価してもらうためのファッション」から踏み出していない感。それが垣間見えた瞬間、冷める。今はそれがもっとわかりやすい世界になって、SNSでみんなに「いいね!」と言ってもらえるような生活を、然もノンフィクションとして流している(私もやりますが)。

フリッパーズギターが、そして小沢健二が好きであれば、避けては通れぬ岡崎京子(図録には小沢くんの寄稿が!)。小学生の頃は難しく感じたけれど、中学に上がって『愛の生活』、『リバーズ・エッジ』、『うたかたの日々』を読んではじめて衝撃をうけました。有り体に言えば、「誰かに愛されたい」「幸せになりたい」と願う本当の姿を、ここまではっきり表に出した人を初めて見た。今まで見てきた「誰かに愛されたい」「幸せになりたい」の、なんと生ぬるいことか!私たちが心の底に抱え込んでいる真の「誰かに愛されたい」「幸せになりたい」は、本来渾身のSOSなのである……。

中学・高校・大学をそういった文化の中で過ごし、順調に自身を拗らせていった私は、『ヘルタースケルター』の”りりこ”のように華やかに変身することもなく、よって気高く開き直ることもなく、地味に自己を形成していったのですが、外見はパっとしなくとも心の中ではいろいろな思いが渦巻いていたわけで、それは時に北極星のように高尚だったり沼のように暗かったりしながら年月とともに蓄積されていき、とくに解放されることもなくいつの頃か匣に収められていたのでした。なので、年を経て反骨心より諦観が強くなってくるに従って、どちらかというとその存在はキレイな淡い思い出として分類されておりました。

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が、この展覧会に行ったらみるみる匣が開き、はじめは「懐かしい~w」とか余裕ぶって観ていたものの、だんだんと過去の生々しい自分と対峙することに。フラッシュバックとは強烈なものです。ああ全然キレイな思い出なんかじゃなかった!いや、汚い思い出ってわけじゃないけど、結構な重量の感情をしまい込んでいたもんだ。 「黒歴史」ではないので、あくまでも「あの頃の自分」が感じた衝撃だったり世間への落胆だったり焦燥だったりは、未だ褪せることなく自分の中にあったんだなという感覚。私にとって岡崎京子展は、普通の展覧会とはまったく別の、タイムカプセルのような展覧会でした。 044

一緒に行こうと声をかけてくれたのが同世代の友人で良かった。過ごした場所は違えど、同じ文化を共有している人と話しながら展覧会を咀嚼できたのは幸運でした。ありがとう!

 

この展覧会、サブタイトルに「戦場のガールズライフ」という名前がついており、言わずもがな岡崎京子さんの王子様である小沢健二くんの「戦場のボーイズライフ」が元ネタですが、ここで言われる「戦場」は派手にドンパチやる戦場ではなく、ウィリアム・ギブスンが言うところの「平坦な戦場」です。

平坦な戦場で 僕らが生き延びること

私は未だにその生き延び方がわからなくて、なんとなく時間だけが過ぎているように感じます。もしかしたらこのまま死ぬまでわからないのかもしれない。そしてそういう人は結構多いのかもしれない。「誰かに愛されたい」「幸せになりたい」というSOSを、いまだ現れない援軍に必死に送り続ける。表面では微笑みを装いながら。孤独と惨劇の地雷を慎重に避けつつ、どこかで運命の誰か(何か)が「もう大丈夫だよ。安心して」と言ってくれるのを信じている。

でも本当は、そんな誰か(何か)の救いの手を期待するのではなく、自らがんがん進んで行った方が生き延びられるんだろうな。愛とか幸せとかより、おもしろさを全身で感じた方が、平坦な戦場におけるサバイバルには有利なのかもしれない。撃たれる前に、こっちからぶっ放す。くちびるから散弾銃を。

 

ねえ?おもしろいって感じないで生きていける? 053

会期:2015年1月24日(土)~3月31日(火)