雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

夏目漱石に愛された画家の話 (津田青楓展)

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練馬区立美術館で開催されていた「生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」が閉幕した。もっと早くにブログを書くべきだった。とても良い展覧会だったから。

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、途中から土曜日曜の開館を「自粛」された。そんなわけで本来4月12日までの会期であったが、4月10日までとなった。

 緊急事態宣言が発令されたのが4月7日、こう言っちゃなんだけど入館者数も少ない故か、4月10日まで開催されていた。会期末に行った人の話を聞いたところ、鑑賞者同士の距離は2メートルどころか、もっともっと離れていたとのことだった。

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 本展は津田青楓初の本格的な回顧展だ。

個人的に青楓には思い入れがある。ちょいちょい寄稿させていただいているgooの「いまトピ」で、津田青楓に関するコラムを書いたことがあるのだが、書く前は「近美にある《犠牲者》を描いた人」くらいしか知識がなかった。けれど調べるうちに「この人、こんなに可愛いデザインもやってたのか」と驚いたのだ。

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 そう、津田青楓は東京国立近代美術館に所蔵されている、《犠牲者》の作者だ。
《犠牲者》は、特高警察によって拷問され、獄死した小林多喜二をモチーフに描いた血みどろの油画。監獄の小さな窓の外には当時できたばかり(建設中?)の国会議事堂が描かれている。

もうひとつ近美の所蔵品であるブルジョワ議会と民衆生活(下絵)》は、国会議事堂を大きく描き、その脇にバラック同然の粗末な家を小さく並べた作品だ。上部にはマルクスの『賃労働と資本』の一節がコラージュされている。
これらの作品から人は「津田青楓はプロレタリアの画家なんだな」というイメージを持つ。いや、どうしたって持つんだけど、この展覧会でそれは青楓の画業のうちの一部でしかないことを知った(もちろん、図案の仕事も広い画業のうちのひとつに過ぎない)。

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メインビジュアルにもなっていた図案。こういうのがぎっしりあった。

青楓は、「明治・大正・昭和」という長い年月をかけて、本当に様々な画風に挑戦していた。正直なところ洋画は「うーむ……」という感じでパッとしなかったのだけれど(失礼)、他はとても良かった。とりわけ図案と装丁が素晴らしく、特に装丁の仕事における夏目漱石とのやり取りには心の中で大騒ぎしてしまうほどだった。

何でも腐らせるなと怒られるかもしれない。もちろんいたずらに騒ぐ気はない。でもこれには、BとかLとかまではいかずとも、なんとも切なくなる堪らなさがあるのだ。
というわけで、まともなレポートは他の方がたくさん書いていらっしゃるので、私はそういう方面でこの展覧会の感想を書き残しておこうと思う。

▼ちなみに会場はこういう感じでした。

 

夏目漱石との交流について

上に書いたとおり、津田青楓は装丁の仕事もしていた。結構名だたる作家の本をデザインしているところを見ると、仕事には恵まれていたように思う。

青楓のことをざっと書いておこう。
彼は明治13年(1880)、京都の華道家のもとに生まれた。次男だったので奉公に出されたが、サラリーマン的な生活が合わずドロップアウト。絵を描くことが好きだったので、当時京都で需要のあった図案家(テキスタイルデザイナー)の仕事に就く(この辺りで橋口香嶠門下に入って日本画を学んでいる)。

この分野で才能を発揮するも、度々従軍する羽目になってしまう青楓。日露戦争では、乃木大将の指揮の下、あの二〇三高地に赴いていた。

戦後は農商務省の海外実業練習生として渡仏。ナビ派を輩出したアカデミー・ジュリアンにて洋画を学ぶ。そして帰国後東京へ行き、ここで夏目漱石と出会うのだ。
青楓はもともと漱石のファンだった。いちファンという立場から一緒に仕事ができるようになるなんて、一体どんな気持ちだったろう(しかも相手は巨匠だ)。青楓、相当嬉しかったようだけれど、彼は元来マイペースな人なので、変に媚びへつらうようなことはなかったように見える。それどころか漱石の方こそ相当青楓が気に入っていたようだった。

そう、そうなんですよ。
あの気難しい夏目漱石が、「津田なら傍らに置いて昼寝ができる」というほど青楓のことを気に入っていたのだ。
先にも書いたように「お前ホント何でも腐らせればいいと思ってんじゃねえぞ」と怒られるかもしれないけれど(なんならついでに白状すると、ルドンとクラヴォーもそういうふうに見て感動した)、本当に本当にこの2人のやり取りを見ているとぐっときてしまう。

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青楓が手掛けた装丁の一部。右下は漱石の『金剛草』。※図録より

前述のとおり青楓は漱石の読者だったわけだが、フランス滞在中には「吾輩は猫である」が連載されていた『ホトトギス』に渡仏体験を投稿しており、それが漱石山房の一人である小宮豊隆の目に留まり、「津田青楓という、ちょっと面白そうな画家がいる」なんて感じで小宮を通じて漱石へと紹介されたそうだ。
そんなわけで帰国後に漱石と繋がることができた青楓は、漱石に油画を教えたり、漱石の日本画にコメントしたり、一緒に展覧会に行ったり、京都を案内したりしたらしい。

夏目漱石とゆかりのある画家といえば、橋口五葉を思い浮かべる人の方が多いかもしれないが、青楓も漱石に絵を教えており、後の青楓の南画の味わいからして「へそまがり日本美術」展(府中市美術館)に出品されていた漱石の作品などは青楓の影響を受けていたんじゃないかなと思うんだけど、どうでしょう。

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まあ、とにもかくにも「津田くんの描く絵は、狙ったり媚びたりしてないところが良いよね」漱石は称賛し、絵を購入するなどしてパトロンのような役割もしていたらしい。装丁をまかせていたのも、そういう支援的な面もあったのかもしれない。

「津田は傍に置いて昼寝することもできるし、何時間も黙って相対してゐても少しも気張らないからいい」 阿部次郎「夏目先生の談話」より

この頃の漱石は、人気作家としての地位を確立しつつも、神経衰弱や胃痛に悩まされていた。悶々とする日々の中で、泰然自若として小さな自然を見つめ、自由闊達に筆を動かす青楓の姿は、漱石の目に新鮮に映ったのではないだろうか。

1914年3月。ちょうど「こゝろ」の連載が始まる直前に、漱石修善寺に逗留している青楓宛てに次のような手紙を送っている。

まだ修善寺に御逗留ですか。私はあなたが居なくなって淋しい気がします。面白い画を沢山かいて来て見せてください。
金があってからだが自由ならば、私も絵の具箱をかついで修善寺へ出掛けたいと思います。
私は四月十日頃から又、小説を書く筈です。
私は馬鹿に生まれたせいか、世の中の人間がみんないやに見えます。(略)
世の中にすきな人は段々なくなります。そうして天と地と草と木が美しく見えてきます。(略)
皿と鉢とを買いました。もっと色々なものを買いたい。芸術品も天地と同じ楽しみがあります。


この手紙を会場で見て、もう打ちのめされてしまった。
この手紙の清潔な文章と、淋しさと愛おしさに、やられた。

なんつー手紙だ。こんなの貰ったら切なくてたまらなくなるじゃないか。

そしてこの後青楓がとった行動も良い。良すぎる。「世の中にすきな人は段々なくなります」から始まる手紙の一節を気に入り、軸装し、壁にかけてはしばしば眺めていたというのだ。

ねえ、わかります? この美しい交流。春の柔らかい風と、新緑みたいな交流。私はもう泣きそうになってしまって、その場で必死で涙を堪えた。
だって、この2年後、漱石は亡くなってしまうのだ。青楓がいつ上記の手紙を軸装したかわからないけれど、漱石が没したあとも絶対にその一節を眺めたと思う。
どういう気持ちで眺めたんだろう? 手紙が届いたのと同じような季節に、もう今はいない漱石のことを考えながら、どんな気持ちでその文章を反芻したのだろう?

切ない。あまりにも切なすぎる。

切ないと言えば、漱石が亡くなった際の葬儀でのエピソードも切ない。
青楓は水を含ませた筆で漱石の唇を湿らせながら、人目をはばからず号泣したそうだ。

 「世の中にすきな人は段々なくなります」

 きっと青楓は、この言葉を思い出していたんじゃないだろうか。
漱石の遺著となった『明暗』の装丁は青楓が手掛けており、それは聖母マリアのような女性が、鳥や草花に囲まれた絵柄となっている(ちなみに『明暗』の主人公は津田という)。

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▲津田青楓(装丁)/夏目漱石『明暗』(ポストカードより)


漱石と青楓のエピソードを踏まえた上で改めてこの装丁を見ると、もう天を仰ぎたくなるような気持ちになる。
橋口五葉の装丁は垢ぬけていて気の利いた感じのものが多いけれど、青楓の装丁は愚直なまでに清らかだ。それぞれに良さがあり、ドキンちゃんとバタコさんとか、クロミマイメロディーとかディオとジョナサン・ジョースターみたいなものなんだけど、人のエゴとか不穏な人間関係みたいなものを描いた話でも、その奥に潜む純真を拾い上げてくるような青楓の可憐な装丁を見ると、きっと漱石は青楓のこういうところが好きだったんだろうなと思えてならないのだ。

 ここまで書いてみて、猛烈に多くの人に観てもらいたくなってしまった。もう終わってしまった展覧会なので「そんなわけで、こういう話が好きな人は行ってみてください」と言えないのが悲しい。いや、もっと早くにブログを書くべきだったなあと思いつつ、図録にはこういったエピソードや書簡が詳しく紹介されているので、気になった人は読んでみてください。

 

青楓のその後

これで終わるのもアレなのでその後をざっくり書いておくと、漱石没後、青楓は安井曾太郎のお嫁さんを探したり、自分は奥さんと離婚したり、すぐに再婚したり(結婚式には志賀直哉などが出席)、画塾をおこしたりした。そして社会運動に関心を寄せ、社会学者の河上肇らの活動を支援し、それが原因で逮捕され、釈放する代わりに「プロレタリアへの関心を一切断ち切れ」と誓わされてしまった(そんで二科会も脱退することになった)。なかなかにジェットコースターな人生だ。

この時描いていたのが、件の《犠牲者》であり、建設中の威風堂々とした国会議事堂と貧しい生活を対比した《ブルジョワ議会と民衆生活》だ。ちなみに《ブルジョワ議会と民衆生活》は絵が直球すぎて警視庁から作品の一部を改変させられ、タイトルも《新議会》と変更させられた。が、これが二科展に出品され(良く出せたなと思うけど)、しかも絶賛され、大きな議論を巻き起こすことになった。
この本画は青楓が逮捕されたときに押収されてしまったのだけれど、警視庁に改変させられる前の状態に近い下絵は残っており、《犠牲者》ともども東京国立近代美術館に所蔵されているというのは、なんとも皮肉な話だなと思う。

そういうことがあり、事実上の「洋画断筆」をした青楓は、その後南画と書の世界に入ることになる。
正直、彼の書はピンとこなかったけれど、良寛を研究しながら勤しんだ南画の世界は透明感があって清々しかった。
個人的には彼の作品の中で一番優れているのは図案と装丁だと思っており、油画は微妙、南画も大絶賛というほどではないのだけれど、どの絵も質感があり、陶器の器はひんやりと、花弁はしっとりしているといった具合でとても良かった。中でも《山高水長画巻》という文字通り山水を描いた長い絵巻は初夏の風を感じられるような爽快感があり、絵巻一体を流れる川の瑞々しさは見事だった。

老後も文化人らとの交流があり、老いた自分を自嘲しつつも結構楽しくやっていた感が見られる。98歳でこの世を去ったが、最期は老衰、大往生中の大往生だろう。不遇の画家とか、病に侵されて早逝した画家という悲しいラストではなかったので、展覧会をあとにする足取りも軽い。

▲会場風景/《犠牲者》、断筆宣言後の日本画、南画はこんな感じ。※許可を得て撮影

しかし思い返すのは漱石とのやり取り。これは本当に胸を打った。
アインシュタインポートレートみたいな晩年の青楓の自画像を見るに、あの天真爛漫な性格に漱石は惹かれたのだと思う。天真爛漫だけど、時に鋭くものの真髄を拾い上げる。そういう目を青楓は持っていた。
ものごとに潜む真髄を鋭く拾い上げ、デザインする才が軽妙に現れているのがやはり図案の仕事で、4月下旬から京都文化博物館で開催の「津田青楓と京都」展では、青楓が京都時代に手掛けた図案の仕事を中心に紹介するという。とても気になるけれど、今の状況がどれくらい好転するかわからないのが不安だ。
練馬の展覧会もTwitterを見ていたら「行きたいのに(状況的に)行けない」と言っている人が何人かいて、とても悲しくなってしまった。

何か突然、劇的にハッピーな展開が訪れたら良いのに。すべてが良い方向へ収まれば良いのに。そんなことを願わずにはいられない4月の夜なのでした。

 

「青い日記帳」のTakさんや、「あいむあらいぶ」のかるびさんによる 津田青楓展のまともなレポートはこちら▼
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