雨がくる 虹が立つ

ひねもすのたりのたり哉

「冨安由真展/漂白する幻影」で亡霊を体験した

 かつて2ちゃんねるにあった、廃墟に突撃するスレッドをご存じだろうか。

 はっきり言って違法行為なのだが(人が住んでおらず、且つ、看守していない邸宅、建物又は船舶の内に正当な理由がなくてひそんでいた場合、軽犯罪法違反となるそうです)、15年くらい前、そのスレッドを見るのにはまっていた時期がある。
 たいていは誰かが廃墟に突撃する旨をスレッドで告知し、仲間を募るか単独で侵入する。中を荒らしたり、物を壊したりするのは暗黙のルールでご法度となっており、写真を撮ってアップしながら只々掲示板に「実況」を書き込むスタイルである。

 程よく朽ち果て、暗く、汚れた室内。時に浴槽に毛布がたくさん突っ込まれているなど、突拍子もない荒れ方にゾっとしつつも興奮した。ちなみに当時こういったジャンルは「DQN系」と呼ばれていたのだが、後にDQNは地方のヤンキー的な存在を指す言葉に代わり、現在では死語となってしまった。

「廃墟にはオカルト的な何かがある」というのはファンタジーだと承知している。中にはそういうものを宿した廃墟もあるだろうけれど、往々にして人が去った建物は手入れをしないので荒れやすいし、自然が豊かな場所では草木に侵食されやすいというだけのことだ。上に書いた「浴槽に毛布がたくさん突っ込んである」ような事態も、実際は大したことのない理由なのだろう。けれど人は、そこに「得体の知れない不安や不気味さ」を感じ取る。そしてそれらは同時に「人を惹きつける力」も持っている。
 我々はその曖昧な二面性に抗いがたい魅力をおぼえ、不気味だとわかっていても自ら近づいてしまうのではないだろうか?

 前置きが長くなってしまったけれど、つまり私は冨安由真作品が放つ世界観から、上で述べたような魅力を感じるのだ。突き刺すような恐怖ではなく、ほんのりと漂う不気味さ。以前資生堂で観た「くりかえしみるゆめ」で感じたこの感覚は、今回の「冨安由真展/漂白する幻影」でも健在だった。

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▲冨安由真「くりかえしみるゆめ」会場風景(資生堂ギャラリー 2018年)

 2018年に資生堂ギャラリーで開催された冨安由真さんの「くりかえしみるゆめ」。

 冨安さんは作品を通じて「曖昧なもの・不確かなもの」を疑似的に表現し、鑑賞者を「気配や予感を鋭敏に感受する受容体へと変貌」させることを試みている。
 つまり目の前に恐ろしいアイコンをわかりやすく配置するのではなく、人間の本能にそっと作用させる手法だ。その試みが今回の会場となった劇場という場で、どのような化学変化を起こすのか、とても楽しみだった。

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 「くりかえしみるゆめ」は以前ブログに書いた通り、鑑賞者がひとつずつ部屋のドアを開けて進んで行くというものだった。最終的に一番初めの部屋に戻るのだが、それ以前にも似たような内装の部屋を通過しているため、一瞬自分が最初の部屋に戻ったということがわからない。
「あれ、この部屋前に来たっけ?」
 そんな既視感に襲われる。まるで何度も同じ夢を繰り返し見てしまった時のような感覚に陥るのだ。

 今回はそういった仕掛けはほぼないのだが、自ら扉を開けて進んで行くという動作は健在だ。そう、うっすらと不気味な予感がしているにもかかわらず、その先へ自ら進もうとしてしまうのである(ここで“そういう順路なんだからしゃーない”というのは野暮である)。 

 見落としがなければ、公式からはこの「自ら扉を開けて進む行為」については言及されていない。なので私が勝手に勘違いして重要視しているだけかもしれない。けれど、「曖昧なもの・不確かなもの」を疑似的に表現し、鑑賞者を「気配や予感を鋭敏に感受する受容体へと変貌」させているのなら、次に受容体となった鑑賞者がどういう行動をとるのか──という、ある種の実験的な試みがそこにあるのではないかと勘繰ってしまう。

 藝大在籍中、冨安さんは博士論文で「心霊を扱った芸術表現の可能性を探ること」について執筆されている。ゆえにオカルトそのものだけでなく、我々鑑賞者が不安や何者かの気配を感じつつも折り返すことなく自らその先へ進んでしまうという、オカルト由来で陥りがちな精神状態をも作品を通じて表現しようとしているのではないだろうか、そう思ってしまうのだ。

 ──とまあ、そんなことをつらつらと考えながら会場に辿り着く。
 元気の良さそうなグループと一緒のタイミングになってしまったため、少し間をずらして入場。そう、冨安由真作品は、なるべく静かな環境で鑑賞することをお勧めする。なぜなら遠くで聞こえる扉の閉まる音や、スイッチの切り替わるわずかな音が、展示をより魅力的なものにしてくれるからだ。そういう音を拾わないともったいない。

 

 さて、話を元に戻そう。

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 目の前に出現した木製の扉に緊張と高揚が混じった気持ちで手をかけると、そこには薄暗く無機質な、長い廊下が続いていた。廊下の奥で、一人の人物がこちらを向いて伺うように立っている。

 一瞬どきりとしたが、何のことはない。廊下の途中に鏡が置いてあるだけで、その人物は他の誰でもない自分である。けれど、意図せず感じた視線に動揺してしまった。

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 なるほど、ここがスイッチか。

 この、唐突に感じる視線や気配。その種明かしがされようとされまいと、この一瞬で私は「気配や予感を鋭敏に感受する受容体へと変貌」したわけだ。

 ここで「受容体」となった私は、廊下を進み、次なる扉に手をかける。ノブを回す指が緊張した。それは決してお化け屋敷的な悲鳴を要するものではなく、じわりと存在する「何か」のテリトリーに踏み込む緊張である。

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 薄く開いた扉の隙間から身を滑り込ませると、そこには光に照らされたピアノがぽつんと置かれていた。それ以外何も見えない。真っ暗なのだ。闇に目が慣れていないせいもあるが、この部屋がどれくらいの広さなのか、自分のほかに人が何人いるかすらわからない。

 見えるのは、闇の中に一筋の光を受けて佇むピアノだけ。

 グランドピアノのようなものではなく、至極私的なピアノだ。近づいてみると上には人形やテキストやらが積まれている。以前の持ち主の気配を、未だ濃厚に漂わせる姿。

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 そうこうしているうちにピアノを照らす光はみるみる弱くなり、辺りを完全な闇が包んだ。しかしそれはこちらを威嚇するような漆黒ではなく、どこかほの暖かいような甘い闇だ。少し目が慣れ始めるのと同じくして、別の場所にぼんやりとした光が灯る。光はみるみる照度を高めていき、そこに何があるのかを照らした。

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 現れたのは薄汚れた机とグラス、電話機、そして獣だった。中型の、愛嬌はあるが、人慣れしていない野生の獣だ。近寄って見ていると、またじわりと光が弱まっていき、やがて闇が辺りを覆う。

 このようにして、部屋は呼吸をするように一ヵ所ずつを照らしていく。そして我々は、だんだんとここが以前はホテルであったことを、調度品などから推察する。

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 今はもう土埃にまみれ、獣が侵入し、荒れ果てた、かつて優雅であった建物。獣は私が近づいても逃げないどころか見向きもしない。そうこうしているうちに、「もしかしてこの動物たちは、私のことが見えていないのではないか?」という錯覚に陥りはじめる(ここで剥製だから当り前だと思うのは野暮である)。

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「もしかして私は、この世界では「実体を持たないもの」になっているのではないかしら?」
「亡霊とか、そういう類の、彷徨えるものになっているのではないかしら?」

 その可能性に思い当たったところで、突然ぱっと背後が明るくなった。

 振り向くとそこには大きなスクリーン。その中でカメラは、どこかの建物の中を徘徊している。スクリーンに吸い寄せられるように歩き始めると、まるで自分が画面の中を歩いているような心地になった。荒れて、植物に侵食された建物の中を彷徨う。

 ── ああ。この映像は私が今いるホテルの中を映したものなんだな。

 室内にあるものと映像の中の景色がオーバーラップして、次第に既視感のようなものが自分の中に形成されていった。だんだんとそれが自分の記憶であるかのような気がしてきて、スクリーンに見入ってしまう。

 そうか。私は、廃墟となったこのホテルに迷い込んだんだっけ。長い廊下があって、フロントがあって、そうそう食堂みたいな場所もあった。それで、それで──。

 映像が終わり、再び訪れた闇の中で、ぼんやりと考える。
「それで私は、この後一体どうなってしまったんだっけ?」

 もし魂というものが存在するのなら、肉体の生命活動が終わったあと、もう躯となったそこを出て、こんなふうにぼんやりしたりするのかもしれない。自分がこと切れた瞬間がわからないまま、一体どうして私はここにいるのだったかと途方に暮れたりするのかもしれない。

 だとしたら今、それを疑似体験しているのだ。私は「亡霊」を体験している。

 「なるほど、自分は亡霊なのかもしれない」。そう気づいた私は、引き続き亡霊らしく彷徨うことにした。部屋が暗くて次へつながる扉がなかなか見つからず、壁を探るのも彷徨っている感じが増して興味深い。やっとこさ見つけた扉をゆっくり押すと、再びあの廊下に出てしまった。

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「あら、出るところ間違えたかな?」

 一瞬そう思ったが、先ほどの廊下にはなかった車椅子が置かれている。似ているようで違う、ここはさっきの場所じゃない。

 更に先へ進む扉を見つけてそれを開くと、またしても真っ暗な部屋に出る。暗い部屋の中を伺うと、奥に大きな絵が掲げられているのが見えた。目を凝らすと壁沿いにはいくつもの絵が飾られていて、天から投げられる光はゆっくりとランダムにひとつずつの絵を照らしているようである。

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 光に導かれるまま大きな筆致の絵を順繰りに観ていくと、どこか見覚えがあるような気がしてくる。またもや漂う既視感に引っかかりを感じていたが、とある一枚に決定的なモチーフを見つけ、はっとした。

 これは、このホテルのかつての姿を描いたものだ。
まだ整然としていた頃の、栄華を誇っていた頃の、人が滞在していた頃の、在りし日の姿。

 ひとつひとつを眺めるうちに、まったく縁もゆかりもないくせに、その遠い日を愛おしく思った。自分が生きていた頃に体験した、もう手の届かない幸せな時間を思うとき、きっとこういう気持ちになるのかもしれない。そんなことを考えた。

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 部屋を後にして、先へ進む。すると無機質な扉が現れ、それを開けたところに元の世界があった。息をつき、軽く伸びをする。伸びをした私に、係りの方が微笑みかけてくれた。 

 かくして亡霊のようなものになった疑似体験は終わり、再び一人の人間としての日常に戻った。もうお気づきかと思うが、このエントリはかなりドラマティックな書き方になっている。しかし嘘は一切書いていない。というのも冨安さんの作品は、世界に入り込めば入り込んだだけ自動的にこういう感覚が体験できてしまうのだ(たぶん)。
 入り口の時点で自分の中のテンションというか波長のようなものを作品の世界観にチューニングする。すると勝手に感覚がいろいろなものを拾い上げ、世界に没頭することができる。これが正しい鑑賞方法かはわからないけれど、私はかなり楽しむことができた。いやあ、絶賛中二病だなあと思わなくもないけれど、とても満喫いたしました。

 現実的な話としては、今回は劇場(スタジオ)を会場としており、そのため照明(スポットライト)が上手く使われていたなという点。雰囲気たっぷりに余韻を残す舞台特有のスポットライトが、部屋や絵を照らすのが展示内容にとても合っていた。あとスモークによる演出も。

 それと、場面転換の際に必ず通過する廊下。小さな劇場のロビーや通路を思い出してもらうとわかるのだけれど、あのちょっと非日常的でよそよそしくて、時に素っ気ないあの空間は、前の部屋で得た印象をリセットしたり、鑑賞者に唐突な場面転換を体験させるのにとても効果的だった。

 冨安さん自身によるペインティングも、筆致が大きくて静かなのに多弁。緊張感と念のようなものをビシビシ感じさせる。

 そんなわけで、自分の中では2回目となる冨安由真展、しっかり堪能した。

 もし自分が本当に亡霊になる日がきたら、願わくは激しく恨んだり悲しんだりせずに、あの「ぼんやりとあいまいな、それでいてほんのりと寂しいような感覚」をまた味わいたい。

 あれはちょっと情緒があって良かったな。
 なるのであれば、将来そういう亡霊になりたいです。

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▲完売となった図録。天地・小口が金になっていて図録というよりも作品集の趣き

 

「冨安由真展/漂白する幻影」
●2021年1月14日(木)~31日(日)
●KAAT 神奈川芸術劇場(中スタジオ)